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05 今日のみことば -中高科スタッフによる- Archive

マルコ13章

「この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」31節

 私たちはこのままずっとこの世界が続くような錯覚に陥りやすいですが、イエス様ははっきりとこの天地は滅びさると宣言しています。そして繰り返しイエス様は、「目をさましていなさい」と忠告しています。それは私たちがこの天地が滅びさる日がいつだかわからないからです。イエス様の再臨は確実に近づいています。いつイエス様が再び来られても大丈夫なように準備をし、目をさまして歩むことが出来ますように。

  「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」ヘブル13:8 

 天地は滅び去っても、変わることのないイエス様から目を離さずに歩めますように。

H・M

マルコ13章

この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。31節

 「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」 ヘロデ大王によって建てられた、金の瓦屋根をもつ石造りの神殿を見て、弟子のひとりが、思わず声を上げました。 しかし、イエス様は「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」 と彼に言われました。 造られたこの天地は、やがて終わりの日を迎え、滅びます。私たちのゴールはここにはありません。

 弟子たちはイエス様のことばに恐れ、「いつそういうことが起きるのですか。どんな前兆があるのでしょう。」とたずねます。 イエス様は、世の終わりに先だって次のことが起こると語られました。

・たくさんのキリストを名乗る惑わす者があらわれること

・産みの苦しみの初め(戦争、地震、ききん)

・信じる者への迫害、あらゆる民族への宣教の広がり

・"荒らす憎むべき者"が自分が立ってはならない所に立ち、"かつてなかったような、これからもないような苦難の日"が訪れること

 歴史の中で、すでに起こったと思われること、またこれから起こると思われることどちらもありますが、 いずれにせよ私たちの想像をこえたことが語られています。 これらのことが起こった後、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来られます。 人の子が来られるのは、地の果てから天の果てまで四方から選びの民を集めるためです。

 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。イエス様ご自身もそうです。ただ父なる神のみがご存知です。 だから、「わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」と主は弟子たちに話すのと同時に、 私たち一人一人に向かっても語りかけておられます。 世の終わりに際しても、キリストとそのことば、救いの約束は決して滅びることがありません。 終わりの日と再臨の時を覚えて、キリストの十字架と復活による救いの恵みの内に、目をさましていることができますように。

H・I

マルコ11章

「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」33節

 律法学者や祭司長、長老たちが宮におられるイエス様のところへ来て、何の権威によって行動しているのか、また誰がイエス様に権威を授けられたのかを質問しにやってきました。それはイエス様を捕まえるための口実を作るためにした質問でした。

 イエス様はそんな彼らの心を見抜いていて、逆に彼らに、バプテスマのヨハネは天から来たのか、人から出たのかを問いました。 彼らは人の目を恐れ、「わかりません」と答え、イエス様も彼らにご自分の権威がどこから来ているのかを答えませんでした。

 主は私たちの心の中を見抜かれます。主の前に不誠実な心も持って立つことを主は喜びません。主は、私たちが子供のように素直で誠実な心を持って主のもとへと来ることを望んでいます。

「主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。」ミカ6:8

H・M

士師記7章

そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎる (32000人)から、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。 イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけな いから。」2節

 ミデヤン人135000人に対し、たった300人で戦うように神は命じられました。一人で 450人を相手にしなければなりません。 人間のすぐに傲慢になる心をご存じの神は、私たちが神にのみ徹底的により頼むことを訓練されます。

 この戦いは神ご自身が戦ってくださるものでした。 ギデオンたちの務めは、主を信頼して、「恐れおののく」ことなく知恵を用いて戦うことだったのです。

 万軍の主なる神さま、私たちは臆病なのにすぐに傲慢な思いになります。自分の足ら なさを知らされた時はあなたの恵みを覚えるときです。

「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに 完全にあらわれるからである。」Ⅱコリント12:9

 神のお取りあつかいと十字架の恵みに感謝します。

H・M

士師記6章

「その夜、主はギデオンに仰せられた。『・・・あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。そのとりでの頂上に、あなたの神、主のために石を積んで祭壇を築け。・・・』」25-26節

 神様がまずギデオンに命じたことは、バアルの祭壇を取りこわして主の祭壇を築くことでした。 バアルとアシェルは、偶像と呼ばれるものです。神様はこの偶像を嫌われました。 

「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。...それを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」出エジプト記21:3-5b

 偶像は決してアシェル像や大仏のような像だけではありません。神様より大切にしている物や人なども偶像になってしまうのです。テレビやゲーム、おしゃれや友達、彼氏&彼女を最優先にして、聖書を読んだり神様に祈ったりする時間がなくなってしまうことも神様は悲しみます。神様を第一とすることを神様は求めておられるのです。神様を第一とする生活が出来るように神様に助けを求めよう。

Y・H

士師記1章

「主がユダとともにおられたので、ユダは山地を占領した。しかし、谷の住民は鉄の戦車を持っていたので、ユダは彼らを追い払わなかった。」19節

 神の命令に従って、ユダ族はカナン人に向かって行きました。神は約束どおり彼らに勝利を与えられました。しかし、彼らは鉄の戦車を持つカナン人を追い払うことはしませんでした。彼らはともにおられる神に助けられている事実よりも、敵の強さを見てしまい、徹底的に戦うことを恐れたのです。

 神さま、私たちもさらに大きな問題が起きると、たじろいであとずさりする不信仰な者です。共にいてくださるあなたをもっと信頼して、戦い抜くことができますように励ましてください。  

Y・H

ヨシュア記19章

「この地について地域ごとに相続地の割り当てを終えたとき、イスラエル人は、彼ら の間に一つの相続地をヌンの子ヨシュアに与えた。」49節

 約束の地においてイスラエルの12部族への相続地への割り当てがすべて終わった後、 イスラエルの民は指導者ヨシュアに一つの町を彼の分として与えました。 ヨシュアはそのティムナテ・セラフという町を再建し、そこに住みました。

 もうひとりのヨシュアといわれるイエス・キリストも、私たちを天における永遠のい のちという約束の地に連れて行くためにこの世に来られました。 モーセが民をエジプトから導き出し、後継者ヨシュアが、数々の戦いを経て彼らを約 束の地に導き入れたように、イエス・キリストは私たちを罪の奴隷から導き出してく ださいました。 そしてなおも私たちの前に立ちふさがる罪に対して身代わりとなって死んでくださっ たのです。そればかりかキリストはよみがえって、罪と死に勝利し、私たちを天の御 国へと導き入れてくださるのです。

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅び て、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っ ています。」ローマ6:6

 「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエ スにある永遠のいのちです。」ローマ6:23

 神さま、感謝します。あなたにお従い続けることができますように。  

H・M

ヨシュア記19章

「第二番目のくじは、シメオン、すなわちシメオン部族の諸氏族に当たった。彼らの相続地は、ユダ族の相続地の中にあった。」1節

 今日の箇所では、相続地の割り当てを決めるためにヨシュアがくじを引いています。二番目のくじはシメオン族が当たり、続いて三番目のくじはゼブルン族、四番目のくじはイッサカル族に当たりました。 シメオン族の相続地は異例で、ユダ族の割り当て地から取られました。「それは、ユダ族の割り当て地が彼らには広すぎた」からと9節に書いてあります。創世記49:7のヤコブの預言の中ではシメオン族に対して、「私は彼らをヤコブの中で分け、イスラエルの中に散らそう。」と書かれています。シメオン族の相続地がユダ族の相続地の中にあったのは、この預言の成就でした。 

 ユダ族の中に取り込まれた小さかったであろうシメオン族でしたが、それから600年以上も経ったヒゼキヤ王の時代にもちゃんとシメオン族は存続していて、相続地もありました(Ⅰ歴代誌4:24-43)。それは神様の恵みであり、小さく見えるシメオン族も神様にとっては大切な部族だったからです。 神様は私たち一人ひとりのことも大切にして恵みと祝福を与えてくださる方です。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4

 私たち一人ひとりを尊んでくださる神様に感謝を捧げよう。  

H・M

マルコ4章

「聞く耳のある者は聞きなさい。」23節 

 イエス様は種蒔きのたとえ話の解き明かしをしてくれました。 みことばが道端に蒔かれる人とは、みことばを聞いてもみことばが心に留まらず、すぐにサタンが蒔かれたみことばを持ち去ってしまう人のことです。

 みことばが岩地に蒔かれる人とは、みことばを喜んで受け入れても根を張らず、困難や迫害が来るとつまずいてしまう人のことです。

 みことばがいばらの中に蒔かれる人とは、みことばは聞いてはいるが、この世の心遣いや富の惑わしや様々な欲望がはいり込んでしまい、みことばに従うことが出来ない人のことです。

 みことばが良い地に蒔かれる人とは、みことばを聞いて受け入れ、神様を信じてみことばに従い、何倍にも実を結ぶ人のことです。 私たちはどれに当てはまるでしょうか?

 『聞く耳』のある人は幸いです。熱心にみことばを求めて真剣にみことばに聞き従う人は、神様に出会う体験をし、神様からたくさんの恵みや祝福を受けます。私たちも聞く耳のある者にさせて下さいと祈りましょう。

H・M

マルコ3章

「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」34-35節

 この箇所は、イエス様と身内の者とのやりとり、というエピソードの間に、律法学者とイエス様のやりとりというもう一つのエピソードがはさまっている、 サンドイッチのような構成になっています。 「イエス様が気が狂った」という人たちの声を聞いて、身内の者たちは、イエス様を連れ戻しに出て来ました。 それはある意味では、イエス様を心配したための行動でした。(20-21)

 イエス様に対して"ベルゼブルにとりつかれている"と言い放った律法学者に対し、イエス様は、 「人はその犯すどんな罪も赦していただけます。...しかし、聖霊を汚す者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」 と警告されました。(22-30)

 キリストの十字架と復活のめぐみを、信仰によって受けたとしても、 私たちの内側に働きかけられる聖霊を拒んでしまったら、私たちを聖めてくださるお方は、他にはだれもおられないのです。 イエス様を囲んでいた大勢の者が、イエス様を連れ戻しに来た身内の者を見て、 「ご覧なさい。あなたのお母さんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。」と言うと、 イエス様は「わたしの母とはだれのことですか。また、わたしの兄弟たちとはだれのことですか。」と神の家族の本質を問いかけられます。 そして、「神のみこころを行う人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」と仰せられます。(31-35)肉のきずなと霊のきずなは、全く別物であることを、イエス様ははっきりと示されました。 そして時には、肉のきずなが、みこころを妨げる場合があることにも気づかされます。 家族の者がその人の敵となります。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、 わたしにふさわしい者ではありません。」マタイ10:36-337

 何よりもあなたを愛する者とならせてください。

H・I

マルコ3章

「汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、『あなたこそ神の子です』と叫ぶのであった。」11節

 聖書の中の汚れた霊や悪霊は、意外にもイエス様のことを良く知っていて(1:24、使徒19:15等)、しかもひれ伏したり「あなたは神の聖者だ」と告白したりしています。イエス様を, 病気を治してくれる方、悩みを解決してくれる方としか捉えない人々もいる中で、ある意味では悪霊の方が正しくイエス様が神のことであることを知っていたのでしょう。 しかし、イエス様は彼らに自分の事を知らせないように厳しく命じられました。

 汚れた霊の告白は、心からの信仰告白ではなく、恐れと敵対の告白でした。イエス様自身を慕い求め、イエス様こそ神の子であり、自らの罪の解決をもたらしてくださる方だという確信に満ちた告白ではなかったのです。 今日私たちはイエス様こそわたしの救い主である、と改めて告白しましょう。その時、続いて書いてある12弟子の任命のように、私たちをそれぞれおかれている場所で勇敢に主のために生きられるように、送り出してくださいます。

T・S

詩篇21篇

「主よ。御力のゆえに、あなたがあがめられますように。私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。」13節

 今日の箇所はダビデ王が書いた詩です。ダビデは祈りに応えて下さり勝利を与えてくださった主に賛美を捧げています。 主はダビデに勝利だけにとどまらず、救い、いのち、祝福、純金の冠、栄光、尊厳、威光を与えて下さいました。 私たちもダビデのように、祈りに応えて下さる主に感謝を捧げることを忘れないようにしたいものです。

「まことに、王は主に信頼し、いと高き方の恵みによってゆるがないでしょう。」7節

 私たちが主から目を離さず主に信頼して歩むとき、私たちはゆるぐことがありません。主が私たちを支えておられるからです。そんな力強く恵み深い主に感謝しつつ、今日も主と共に歩もう!

H・M

詩篇18篇

「神、その道は完全。主のみことばは純粋。主はすべて彼に身を避ける者の盾。」30節

 この詩篇は、ダビデが王宮での平和な生活を思って歌ったのではありません。かつて忠実に仕え信頼しあう関係だったサウルから追われる身になってしまったこと。その手をのがれて町や野、山や谷をいき巡り、時には洞穴に隠れて過ごしたこと。サウルを打つチャンスがありながらも主の前に誠実を尽くそうと、それを放棄したこと(第一サムエル24章、26章)などを振り返ったとき、神の道は完全で、主のことばは何一つ違わず、本当に信頼できるものだった、という心からの告白です。

 苦難は避けて通れません。むしろ主に従おうとすればするほど悩み、自分の足りなさに嘆くものです。しかし私たちの歩みの確かさは、私たち自身によるのではありません。 苦難の中でも神様に信頼し、自らの歩みを積極的にゆだねて行く時に私たちの目標ははっきりし、神様は本当に信頼に足るお方なのだということが、自分の体験を通しても明らかになるのです。

T・S

詩篇17篇

「私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。」8節

 ダビデはこの祈りの中で神さまに訴えています。それは「まわりの人々は自分のことを誤解し、攻撃してきます。でも私はいつもみことばに従い、正しく歩みたいと願っています。 どうか主よ、あわれんで、私を守り助けてください。」という思いです。

 神さま、私たちも時に人から誤解されたり、中傷されて傷つくことがあります。 でもあなたは私たちのすべてをご存じです。いつもあなたの懐に飛び込んで、あなたに信頼して慰めをいただくことができますように。主の十字架によって、私たちにあなたとの親しい交わりが与えられましたことを感謝します。どうか私たちの日々の歩みが、その恵みに応えるものとなりますように。

Y・H

ヨシュア記10章

「主はヨシュアに仰せられた。『彼らを恐れてはならない。わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ。彼らのうち、ひとりとしてあなたの前に立ち向かうことのできる者はいない。』」8節

 ヨシュアとギブオンが盟約を結んだことを恐れたエルサレムの王の働きかけによって5人のエモリ人の王たちが集まり、ギブオンを攻撃しました。そこでギブオンはヨシュアたちに助けを求めました。ヨシュアはすぐさまギブオンを助けるために総力をあげます。 神様はヨシュアに勝利を約束し、彼を励ましました。 神様は敵をかき乱し、彼らの上に天から大きな石を降らせました。またヨシュアが願ったとおりに、日と月をとどまらせて夜を長くし、ヨシュアたちイスラエル人のために戦い勝利をもたらしました。

「恐れてはならない。おののいてはならない。強くあれ。雄々しくあれ。」25節

 神様はヨシュアを励ましたように私たちをも励ましておられます。そして私たちに必要な助けを与えてくださいます。 ヨシュアのように忠実に神様の言葉を信じて応答する者にならせて頂こう。  

H・M

ヨシュア記7章

「立て。あなたはどうしてそのようにひれ伏しているのか。」10節

 エリコを攻略したヨシュア率いるイスラエルの民。しかしアイとの戦いでは敗走を体験します。今まで主はヨシュアたちを確実に導いてくださったにもかかわらず、敗北を経験したときにでてくる言葉は「ここに来なければ」「あんな選択をしなければ」「あの時こうしていたら」・・・。ヨシュアがあくまで神様の御名のために心を砕いていることには驚かされますが、やはり彼も気落ちしているのです。

 しかし、主は「立て」と言ってくださいます。そして罪を示し、悔い改めるべきことを示し、それを経て回復させてくださるのです。人は罪の中にいるうちは神様と向き合うことが出来ません。だいたいのところは神様を信じている、といっても握っている罪があれば真っ直ぐに神様に向くこともできませんし、平安もありません。

 そんな私たちを神様は、憐れみによって悔い改めに導いてくださるのです。十字架と復活によって罪を赦され、神様に真っ直ぐに向き合い神様と共に歩む以上のことはありません。それを握っていさえいれば、私たちは苦難の中でももう一度立ち上がれるのです。  

T・S

ヨシュア記4章

「その日、主は全イスラエルの見ている前でヨシュアを大いなる者とされたので、彼らは、モーセを恐れたように、ヨシュアをその一生の間恐れた。」14節

 ヨシュアとイスラエルの民たちは主の契約の箱をかついで、ヨルダン川を渡りました。ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせきとめられたのです。(7節) ヨシュアは主に命じられたとおりに、ヨルダン川の真ん中からイスラエルの部族の数に合うように12の石を取って、宿営地に戻ってそれを据えました。それは、イスラエルの民が主のみわざを忘れず、主を恐れ、また地のすべての民が主の御手の強いことを知るためでした。

 皆がヨルダン川を渡り終わると、ヨルダン川の水はもとの所に返って以前のように岸いっぱいになりました。 その日、主はヨシュアを大いなる者とされました。ヨシュアはモーセの後継者となったのです。 私たちもそれぞれ主のみわざを経験します。

「私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。」詩篇77:11-12

  静まって主のみわざを思い巡らし、主に感謝を捧げよう。

H・M

創世記50章

「ヨセフは彼らに言った。『恐れることはありません。どうして私が神の代わりでしょうか?あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。』」19-20節

 父ヤコブが亡くなり、エジプトは彼のために70日間泣き悲しみました。 ヨセフはパロに許可を取り、父に頼まれていたとおりにヤコブをカナンの地に運んで葬儀を行い埋葬しました。 父の亡き後、ヨセフの兄弟たちはヨセフにした悪を思い、もしかしたらヨセフが仕返しするのではないかと恐れました。そこで兄弟たちはヨセフに「今、どうか、あなたの父の神のしもべたちのそむきを赦してください」と赦しを請い、彼の前にひれ伏して「私たちはあなたの奴隷です」と言いました。兄弟たちはきちんとヨセフの前で自分たちの犯してしまった罪を悔い改めたのです。

 これに対してヨセフは優しく兄弟たちに語りかけました。長くて辛かった経験、兄弟たちの裏切りでさえも全て神様が良いことのために計らってくださったと言っています。ヨセフは神様に信頼し、神様の計画が最善であることを知っていたのです。

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」ローマ8:28

 今はわからない辛い経験があったとしても、神様が必ずその経験をも益として下さることを信じて歩みましょう。

H・M

創世記48章

「あなたがたによって、イスラエルは祝福のことばを述べる。『神があなたをエフライムやマナセのようになさるように。』」 こうして、彼はエフライムをマナセの先にした。(20節)  

 イスラエルが病気であることを知らされたヨセフは、自分の2人の息子をつれて父に会いにいきます。 死が間近に迫っているのを悟ったイスラエルは、エジプトの地でヨセフに与えられたエフライムとマナセを自分の子とすることを告げました。それは、相続の権利を与える意味がありました。ヨセフは当然のように、兄マナセをイスラエルの右手(権威の象徴)に向かわせました。 しかし、イスラエルは手をわざわざ交差させて、兄マナセより弟エフライムを先にしました。

 創世記の他の箇所に同じパターンを見ることができます。 カインとアベル。(4章)イシュマエルとイサク。(17章)エサウとヤコブ。(27章)→ただしヤコブに関してはあざむきによって奪い取った祝福は真の祝福にはならなかったですが。 またイエス様も救いの恵みについて、ぶどう園ではたらく人々のたとえ(マタイ20章)を用いて先の者(ユダヤ人)があとになり、あとの者(異邦人)が先になることが多いことを示されました。

 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者にするため、無に等しいものを選ばれたのです。 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」Ⅰコリント1:25−29  

 神様。あなたにそむいて罪の中にあった私を、十字架のキリストのゆえに、神の子としてくださり、御国を受け継ぐ権利を与えてくださったことを感謝します。 私が自分が造られたものであり、あなたに救い出されたものであることを忘れ、誇ることのないようにしてください。罪ゆるされた罪人であることをよく覚え、御前にへりくだらせてください。

H・I

創世記46章

「もう今、私は死んでもよい。この目であなたが生きているのを見たからには。」30節

 ヨセフ物語の中でのヤコブの言葉は「死」と関係するものが多くありました。それはヨセフが死んだと思い込んだことや(37:35)、ベニヤミンも失う恐怖(42:38)を前にしての絶望をあらわしていましたが、ヨセフが生きていることがわかると希望が芽生え(45:28)、今日の箇所に至ります。絶望でしかなかった死が、希望につながっていったのです。 

「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。」ルカ2:29-30 

 イエス様の誕生を待ち望んでいたシメオンの言葉です。誰にでも必ず訪れる死ですが、十字架と復活の救い主イエス様に出会ったものにとっては絶望ではなく、それを見据えて、残されている人生を勇敢に歩む希望の旗印となるのです。

T・S

創世記44章

「ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。」33節

 末っ子のベニヤミンだけを奴隷にして他の兄弟たちは父のところへ帰りなさいと言うヨセフに、ユダはそれだけはやめて欲しいと懇願し、父ヤコブのことなどを説明します。 ベニヤミンをエジプトに連れて来るときに、ヤコブは嫌がり、ベニヤミンをも失ったら悲しみのあまり死んでしまうと言いました。ユダはそんなヤコブに、ベニヤミンの保証人となって、彼を連れて帰れなかったらその責任を負うと約束して出てきました。

 ユダはこれ以上ヤコブを悲しませたくありませんでした。それは自分たちが犯した罪のために、ヨセフがいなくなって悲しみに暮れる父を見てきていたからかもしれません。 ユダは、自分をベニヤミンの身代わりにして欲しいとヨセフに懇願します。

 神様は、ユダたち兄弟がヨセフを売り渡した咎をあばかれ、彼らに悔い改めるチャンスを与え、そして悔い改めたユダにこのようなベニヤミンやヤコブに対する大きな愛を与えてくださったのです。 私たちの罪の身代わりとなって下さったのはイエス様です。自分が罪ある者だと神様の前で告白し、悔い改め、イエス様の愛を覚えて感謝しましょう。

H・M

詩篇8篇

「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。」2節

 この詩篇を書いたダビデは自身が偉大な王さまでした。 しかし彼は、神さまは弱くて小さく見える者を通して、ご自分の栄光を表されるお方なのだということを知っていました。 それは彼がまだ羊飼いであった時、満天の星を見上げながら、天と地とすべてのものを造られた神さまを思い、人間の小ささやはかなさに思いをはせたからではないでしょうか。

「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、 人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。 人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」3,4節

 神さま、こんな小さな者なのに人間を「あなたのかたち」に造ってくださいました。 そしてあなたにそむいて罪を犯したあとも、なおも私たちを愛し、助け出すためにイエス様を送ってくださったことを感謝します。 どうか幼子のように、あなたに信頼して生きることができますように。今週も私たち一人ひとりの歩みを通して、あなたのみこころがおこなわれますように。

「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、何と力強いことでしょう。」9節

Y・H

詩篇7篇

「神は正しい審判者、日々、怒る神。」11節

 私たちは神様が愛であると知ると同時に、さばき主であるということも知らなければなりません。

 人間は一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが決まっています。(ヘブル9:27)

 そして私たちの中で誰ひとり罪がない人はいません。神様は正しいお方なので罪を見過ごすことは出来ません。 神様はさばきの日に公正に私たちをさばかれるのです。 私たちはこのさばきの日が来る前に何をすることが出来るでしょう? それは自分が神様の前に罪人であることを告白し、罪を悔い改め、神様のひとり子であるイエス様を信じ、罪の赦しを求めて祈ることです。 イエス様はこう言っています。

「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」ヨハネ5:24

 まずは自分が罪人であることを認めて神様に救いを求めよう。

H・M

第二ヨハネ

「愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、~愛のうちを歩むことです。」6節

 命令という響きからは、義務や束縛といったものを感じ取ることもあるかもしれません。しかし聖書がいう命令とは、愛のうちを歩むこと。教会を、他者を、そして神様を本気で愛する時に私たちは自分を考えなくなります。そしてそこには、束縛でも義務でもない自由な喜びの関係があるのです。

 問題は、私たちが愛せるのかということです。一度徹底的に他者を、神様を愛そうとしてみればわかります。自分の愛にはいつも損得勘定がついてまわることを。いつも見返りを求めていることを。敵を愛するだなんてとてもできないことを。自分自身を愛せる、でも他者は愛せない。これが私たちの現実です。

 あきらめる前に、十字架を見上げましょう。誰も心から愛することができない私たちを救うために、私たちを愛し抜いて十字架にかかったイエス様を見上げましょう。いのちを投げ出す程私たちを愛してくださった方の前で私たちの愛のなさ自己中心を悔い改めるときが、私たちが神と人を愛し始めるスタートラインです。

T・S

第一ヨハネ4章

「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」18節

 神様は愛であり、その愛は全き愛です。 愛と恐れは決して交わることがありません。私たちが神様の愛のうちに留まる時、全ての恐れから解放されるのです。 初めに神様が私たちを愛して下さいました。神様は私たちを愛するがゆえに御子であるイエス様を地上に遣わし、十字架の死によって私たちの罪の贖いを成し遂げて下さいました。

 だれでもイエス様を神様の御子だと告白するなら、神様はその人のうちにおられ、その人も神様のうちにいます。 人間は神様から愛され、神様の愛を知ることによって、神様と人とを愛することが出来るようになるのです。

「神を愛する者は、兄弟をも愛するべきです。」21節

 目に見える兄弟を愛せない者は、目に見えない神様を愛することはできないと聖書ははっきりと言っています。 家族や友達、学校の先生や先輩や後輩など、なかなか愛せない、赦すことが難しいと思う人はいませんか? きっと誰にでもそういう経験はあると思います。そんな時は神様に助けを求めましょう。神様に立ち返り神様の愛のうちに戻ることによって、人をも愛することが出来るようになるのです。

H・M

創世記19章

「ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。」26節

 ロトと彼の家族が住んでいたソドムの町は、罪で満ちており、滅ぼされようとしていました。 そこに住んでいたロトと彼の家族は、おじのアブラハムのとりなしの祈りにより、危機一髪、二人のみつかいによって町の外に救い出されたのでした。 

 二人はロトたちに「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。」と命じました。 しかし、逃げ走る途中、ロトの妻は後ろを振り返ってしまったのです。 あとに残して来た家や財産や人々のことが気にかかったのでしょうか。ソドムの町が本当に滅ぼされるのかなと自分の目で確かめようとしたのでしょうか。 町もろとも滅ぼされたかもしれないロトたちを、主はあわれんでくださって、逃がしてあげようとなさったのに、彼女はそこでの生活に未練があったのでしょうか。

 イエスさまも、

「誰でも、手を鋤(すき)につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」

 とおっしゃいました。 神さま、十字架のあがないによって、罪の滅びから救い出された私たちです。 この世のことにばかり心が引き寄せられて、神さまとみことばを後回しにし続けることがありませんように、どうか助けてください。

Y・H

創世記19章

「しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。-主の彼に対するあわれみによる、そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。」16節 

 ソドムの町は人々の罪深い行いのゆえに滅ぼされようとしていました。 神様はその前に、アブラハムの甥であるロトのところにふたりの御使いを送られ、ロトに家族を連れてソドムの町から出なさいと言いました。 そこでロトは娘たちの婿にそのことを伝えますが、彼らはそれを冗談のように思い、聞く耳を持ちませんでした。 ロト自身も逃れることにためらいを感じていましたが、御使いたちがロトと彼の妻とふたりの娘の手をとって町の外に連れ出してくれたのです。 それは神様のあわれみによるものでした。神様はロトを見捨てなかったのです。

 「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」哀歌3:22  

 私たちも神様の恵みとあわれみによって毎日生かされています。 そして罪深い者であるにも関わらず、神様は私たちをいつも招いてくださっています。 神様のあわれみに感謝しよう。 また神様からの警告を聞き逃さないように、静まって神様の声、みことばに耳を傾けることが出来るように祈ろう。

H・M

創世記16章

「そこで彼女は自分に語りかけられた主の名を『あなたはエル・ロイ』と呼んだ」13節 

 主人の子をみごもり、女主人を見下したハガルと、結果ハガルをいじめて追い出してしまうサライ。私たちの弱い心、罪が見え隠れします。しかし主は、さまようハガルの名を呼び、あなたはどこから来て、どこへ行くのか、と問いかけられます。それは問いのかたちでのハガルへの導きであり、これからすべきこと、つまり女主人に謙遜に仕えることを示してくださいます。

「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます―。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。」詩篇139篇 

 主は私たちの人生を「ご覧になる神様(エル・ロイ)」です。神様は人知れず悩む私たちの名を呼び、私たちを顧みてくださる方です。立ち返るべき場所があるならそれを示し、悔い改めへと導いてくださる方です。そんな神様が私たちをご覧になっている。これほど大きな励ましは他にあるでしょうか。

T・S

ヨハネの黙示録22章

「神と子羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。」3-4節 

 主はモーセに言われました。 

「あなたはわたしの顔をみることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(出エジプト33:20) 

  罪ある人間は、全く聖い神様の前にたてもせず、その顔を見ることもできません。しかし、神様を信じるものが直接御顔を仰ぎ見、仕える時が来ることを聖書は記しています。それは、この黙示録が書かれた当時迫害で苦しんでいた人々への励ましであり、同時に今聖書を読んでいる私たちの希望でもあります。

  私たちには苦しみがあり、悩みがあります。その全ての理由がはっきりしている訳ではありません。しかし救いの完成の日を目指す希望があること、救いの歴史を神がはじめられ、救い主が来られたこと、それを指し示す御言葉があることは、はっきりしていることです。 

 クリスマスこそ、神の子であるイエス様がご自分を低くして、人の歴史の中に確かに来て下さった時です。御顔を見ることの出来ない神が人となり、直接に顔を見、声を聞くことの出来る存在になって下さったことが、この希望の確かさを裏付けています。 はっきりと示されている事柄を握り締めて、与えられた人生を歩んで行こう。

T・S

ヨハネの黙示録20章

「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」11節 

 サタンである竜は御使いによって捕らえられ、千年の間縛られ閉じ込められます。 千年が終わるとしばらくの間サタンは解き放たれますが、天から火が降ってきてサタンとその仲間たちは焼き尽くされます。 そしてサタンである悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれ、永遠に苦しみを受けるのです。 

 この最後の戦いは神様の完全な勝利で幕を閉じました。 その後、ヨハネは大きな白い御座に座っている方を見ます。これは神様のさばきの御座です。 ここでは全ての人が神様の前でおのおのの行いによってさばかれます。 

いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。」15節 

 いのちの書には、イエス様を自分の救い主と信じて救われ、永遠のいのちを得た人たちの名前が記されています。 なので、いのちの書に名前が記されている人たちはさばきから逃れ、神様がおられる新しい天地に入ることが出来るのです。

「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません、だれも誇ることのないためです。」エペソ2:8−9 

 神様は恵みのゆえに私たちを救って下さるのです。その恵みに感謝を持って応えましょう。

H・M

ヨハネの黙示録19章

「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。」6−7節

 ヘンデルのメサイヤの中で、もっとも有名な曲「ハレルヤ」がコンサートで演奏される時、みな立ち上がって耳を傾けるのがならわしとなっています。 ロンドンで初めてこの曲が演奏された時、国王が曲の途中で立ち上がり、その後みな総立ちとなったという話がその由来です。 神様から賜物を与えられたヘンデルが作ったこの曲を通して、今を生きる私たちが、やがて来られる方を待ち望みつつ、みな立ち上がって、声高らかに神をほめたたえる。 それはまさに、「小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ、すべての神のしもべたち」(5)による賛美です。 

 私たちはこの「ハレルヤ」ということばを良く知っている割りに、口にすることは、あまりないのではないでしょうか。 むしろ気恥ずかしさを感じてさえ、いないでしょうか。 宗教的なことばで、ことさらに自分を飾り立てる必要はありませんが、せっかく与えられている神をほめたたえることばを、 宝の持ち腐れにしてはいないでしょうか。 

 待降節を迎えています。

「見よ。あなたの王があなたのところに来られる。」ゼカリヤ9:9 

 キリストは人となられて地に来られ、十字架と復活の救いのみわざを成し遂げられ、天に上られました。 そして、終わりの日に、ふたたび私たちのところに来られます。 しかし、それだけでなく、今も私たちとともにいて下さる主は、毎日、私たちの所に来ておられるのです。 ですから私たちも、毎日「ハレルヤ」と神をほめたたえて生きていきましょう。

H・I

ヨハネの黙示録18章

「なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。」5節 

 栄華を極め、何を持ってしても倒れることがないように思えた大バビロン。しかしその罪は天にまで届き、神様は決してそれを見過ごされませんでした。 

 「なぜなら、わたしは彼らの不義に憐れみをかけ、もはや、彼らの罪を思い出さないからである、」ヘブル8:12

 しかし私たちが自分の罪を認め心から悔い改める時、神様は私たちの罪をもう思い出さないと言ってくださいます。それは、私たちが良い子になったからでも、良い行いを重ねたからでもありません。神様ご自身が用意された、イエス様の十字架と復活によるのです。

 救いの拠り所は人間の側にはありません。ただ神様の憐れみなのです。そして、はっきりとした罪の赦しの確信があってこそ、私たちの人生はイエス様という土台にしっかりと建て上げられるのです。 

 アドベントのこの時、私たち一人ひとりの罪の身代わりとなるためにこの世に来てくださったイエス様を思い起こしながら、一日一日を過ごして行こう。

T・S

ヨハネの黙示録16章

「こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。」 16節

  第六の御使いが鉢をぶちまけたとき、竜(サタン)の口と、獣(ローマ帝国に代表さ れる地上で政治的権力を持つ者)の口と、 にせ預言者(偽りの宗教的指導者)の口から、汚れた霊たちが出てきました。 その汚れた霊たちは言葉巧みに地上の王たちをあざむき、神に反逆させ、戦いを挑ま せるために一か所におびき出しました。 

  神の最後のさばきが始まっていても、サタンはあくまでも抵抗し、人々を惑わして神 と戦わせようとするのです。 神の怒りとさばきのただ中でも、人々は自分がしてきたことを悔い改めようともせ ず、かえって逆らい続けるのでした。

 サタンは全世界の地上的権力を持っている者たちの力を結集して、天にいます万物の 支配者である神になお反逆しようとしました。 

 「見よ。わたしは盗人のように来る。目を覚まして、身に着物をつけ、裸で歩く恥を 人に見られないようにするものは幸いである」15節 

  この神さまとサタンの最後の戦いはいつかわかりませんが、神さまは私たちにもその 日に備えるように言われます。 罪を悔い改めた者には、小羊なるイエス様の血で洗われた白い衣が着せられているこ とを感謝し、主に最後までお従いして生きることができますように。

Y・H

ヨハネの黙示録5章

「ほふられた子羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受ける にふさわしい方です。」12節

 礼拝の、最後の祝祷でも読まれるみことばですね。幻の中で天に上げられたヨハネは、大切なことが書かれた巻物の封を解くことのできるのは、勝利したユダの獅子、ダビデの根であると知らされます。

 それは十字架で死なれ(罪のあがないのためにほふられ)、三日目に復活されたことによって、罪と死に完全に勝利されたダビデの子孫、イエス・キリストのことでした。イエスさまはほふられた小羊の姿をしてそこに立っていました。神さまから巻き物を受けとったその小羊は、賛美と、祈りと、礼拝を受けるにふさわしいお方でした。

「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなた は、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のた めに人々をあがない、・・・」9節

「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように」13節

 イエスさまの十字架による救いのみわざを感謝し、主をあがめます。

Y・H

エゼキエル書46章

「君主が安息日に主にささげる全焼のいけにえは、傷のない子羊六頭と、傷のない雄羊一頭である。」4節

 今日の箇所は、君主が神殿で行う礼拝やささげ物について、また君主の土地の相続について、主がエゼキエルに語っています。 主は事細かにささげ物の種類までも定めておられました。動物や穀物のささげ物がずらっと書かれています。 

 君主は安息日以外にも、新月の祭りの日には、傷のない若い雄牛一頭と傷のない子羊六頭と雄羊一頭もささげることが求められています。 牛や羊は貴重な財産でしたが、その家畜を奉納者が自分の手で持ってきて祭司にささげ物として渡すのです。かわいがって育ててきた家畜を差し出すのは、痛みが伴うものではなかったでしょうか。 ここで主が求めておられるのは、自分が罪を犯したことを悔い改め、主に赦しを求める心であると思います。

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」詩篇51:17 

 そして主はご自分のひとり子であるイエス様をこの世へと送り、十字架の上で私たちの罪のあがないをして下さいました。 それによって私たちは以前のように身代わりのささげ物をすることはなくなりましたが、いつでも砕かれた悔いた心も持って神様を礼拝する者となれせて頂くようにと祈っていこう。

H・M

エゼキエル書43章

「人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、私の足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。」7節 

 かつては神の栄光が神殿を去る幻を見たエゼキエル。今は神の栄光が神殿に戻ってくる幻を見ます。人が建てた神殿に神がお住みになるとは、とても不思議なことに聞こえます。しかしそれは神様のスケールが小さくなることではなく、栄光に満ちた神様が人の声に耳をかたむけ、関心を持ってくださり、人格的な交わりをもってくださるということです。 

「あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。」1コリント3:16

 神殿に求められたのは、きよめられること。同じように僕たち自身が罪を悔い改めて神様の前にへりくだる時、神様は私たちをきよめ、私たちの内に住んでくださいます。そして、悔い改めさえも神様の導きだったことを知るのです。

 平凡な僕たちの毎日に、神様が共にいてくださる。御言葉を思い起こさせ、導いてくださる。それを意識し、感謝して生きてこそ、苦難のときも神様により頼んで踏み越えて行けるのです。

T・S

エゼキエル書40章

「彼は私に言った。『この南向きの部屋は、宮の任務を果たす祭司たちのためであり、北向きの部屋は、祭壇の任務を果たす祭司たちのものである。』」45-46節 

 主はエゼキエルに新しく再建されたエルサレムの神殿の幻を見せてくださいました。 そこで御使いと思われる人が、エゼキエルを神殿の中の色々なところへと連れて行ってくれます。 いけにえのために使われる道具や、祭司たちの部屋も見せてもらいました。

 エゼキエルは主の神殿のために仕える祭司だったので、この光景をみて感慨深いものがあったと思います。主は再建された神殿を彼に見せることによって、主とイスラエルの民の関係の回復を知らせたかったのではないでしょうか。 それと同時にエゼキエルに新しい希望を与えたかったのではないでしょうか。 主はこの幻を見せることによって彼を励まされたのです。 

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。-主の御告げ。-それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望をあたえるためのものだ。」エレミヤ書29:11

 神殿は神様を礼拝する場所です。そこで私たちは神様に仕え、神様に感謝の賛美を捧げるのです。 私たちの教会の会堂建築のためにも引き続き神様に信頼し祈っていきましょう。 そして今日も私たちに平安と希望を与えてくださる神様に賛美を捧げよう。

M・H

エゼキエル書35章

「それゆえ、ーわたしは生きている。神である主の御告げ。-おまえが彼らを憎んだのと同じほどの怒りとねたみで、わたしはおまえを必ず罰し、わたしがおまえをさばくとき、わたし自身を現わそう。」11節

 ここで神様が"おまえ"と呼ばれいるのはエドムのことです。 神様がイスラエルを裁いたので、北イスラエル王国と南ユダ王国はとても弱っていました。 その隙をみて、エドムはイスラエルを占領しようとたくらみました。 神様はそんなエドムに対してこう言われました。

「おまえたちは、わたしに向かって高慢なことばを吐いたが、わたしはそれを聞いている。」13節 

エドムはイスラエルを憎み、あざけっていました。その言葉を神様は自分に対してのことばだと受け取られたのです。 それは今でも神様はイスラエルの神であり、イスラエルは神様のものだということを明らかにするお言葉でした。 神様はイスラエルを裁かれましたが、見捨ててはいなかったのです。

「わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」ヨシュア1:5

 神様は私たちにもそうお語りになります。今日もいつも共にいて下さる神様に信頼して歩もう。

H・M

エゼキエル書17章

「野のすべての木は、主であるわたしが、高い木を低くし、低い木を高くし、みどりの木を枯らし、枯れ木に芽を出させることを知るようになる。」24節 

 捕囚の地バビロンでユダの王とされたゼデキヤ。彼は国力が少し回復してくるとエジプトに助けを求め、バビロンに反逆しました。今の苦しみの中で主は何を求めておられるのかを考えるよりも、人間に頼り、自分の力でなんとかしようと画策したのです。

「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」詩篇51:17 

 苦しみの時にも、喜びの時にも、私たちは自分の立ち位置を確認しましょう。誰一人自らの資格で憐れまれた者、自らの力で罪赦された者はいません。私たちのために、神の御子であるイエス様が、自らを低くし、十字架の死にまでかかられ、そして復活されました。私たちは自分ではなくイエス様に希望を置いている者です。

 へりくだって罪を悔い改め、十字架と復活を自分のためのものとしていつも受け止め直して、悔いた心をさげすまない主に信頼して歩もう。

T・S

エゼキエル書12章

「あなたが、自分の若かった時のことを思い出さず、かえって、これらすべてのこと でわたしを怒らせたので、見よ、わたしもまた、あなたの頭上にあなたの行いを返 す・・・。」43節

 神さまはエルサレムを大切に守り育て、ご自分のものとして心から愛し、良いもので 満たしてくださいました。 しかし今、民はそのことを忘れ、神よりも偶像とそれに従う国々に心惹かれ、より頼 むようになってしまいました。 神から離れて、感謝を忘れ、与えられた良いものを自分の欲望のために悪用している 民に、神の怒りが下ります。

 「恩を忘れる」という言葉があります。私たちは、された嫌なことはいつまでもおぼえているのに、受けた良いことをすぐに忘れてしまいがちです。 自分の内なる罪や弱さに途方に暮れていたとき、「生きよ」と言って救ってくださった方を忘れて、自分の思いのままに日を過ごしてしまう私たち。 みことばを学ぶと民の姿は自分だと気づかされます。

 同じように厳しいさばきを受けるはずだった私たちの代わりに、ひとり子のイエスさ まを十字架にかけてくださった神さまは、 今日も私たちが主のもとに立ち返るのを待っていてくださるのです。

「あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。 ―神である主の御告げー だから、悔い改めて生きよ。」エゼキエル18:31,32

Y・H

エゼキエル書16章

「あなたの生まれは、あなたが生まれた日に、へその緒を切る者もなく~布で包んでくれる者もいなかった。」4節

 今日の箇所は、エルサレム(イスラエルの民)がひとりの娘としてたとえられています。 この娘は生まれたとき、両親にも嫌われ、誰からも愛されずに野原に捨てられてしまいました。 そんな時に娘に目を留めて大切に育ててくださったのは神様でした。 神様は苦しみの中でもがいている娘に、「生きよ」とくり返し言われました。 そして神様は娘をご自分の花嫁として迎え入れてくださったのです。 神様はこれほどまでにエルサレムを愛されていたのです。

「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43:4

 私たち一人ひとりも神様から愛されています。 神様の無条件の愛に応えて感謝しよう。

 15節以降はエルサレムが犯した罪が書かれています。 それは神様以外のものを愛するという偶像礼拝の罪でした。 神様が嫌われることをしたエルサレムは、神様の怒りを引き起こすのです。 私たちが大切に思っている人から裏切られたらどんな気持ちになるでしょうか? 私たちは神様のものです。私たちが神様から目を離すとき、神様はとても悲しい思いをします。 毎日神様から目を離さず、神様と共に歩むことが出来るようにと祈ろう。

H・M

エゼキエル書14章

「たとい、そこに、ノアとダニエルとヨブの、これら三人の者がいても、彼らは自分たちの義によって自分たちのいのちを救い出すだけだ。」14節

 エルサレム陥落を目前にしたイスラエルは、主により頼まず、彼らを取り囲む強国とそれらの国の異教の神々=偶像を頼みにしていました。 目の前に、はっきりとご自身をお示しくださっている神から目を背けようとするのは、いつの時代もかわらない私たちのそむきの罪の現実です。 しかし、私たちはすべて主に造られたものであり、本来、主のものであるべきなのです。 だから主は、私たちを多くの偶像から取り戻そうと、ねたみすらされるのです。

 天と地において、唯一ねたむことができるのは、すべてのものを造られ、所有されている神ご自身だけです。 それゆえ、イスラエルに罪のさばきが下されるのは、彼らがもう一度主に立ち返るためなのです。 

 彼らがわたしの民となり、わたしも彼らの神となるためである。11節

 ここに、神の"聖さ"と"愛"がぶつかりあっているのです。愛するが故に、滅ぼさなければならないという矛盾に神ご自身が解決を与えられました。 十字架のキリストによって、滅ぶべき罪人である私たちは、罪から贖い出されました。 それは、ノア、ダニエル、ヨブといった旧約時代を代表する義人3人が集まっても、成し遂げられないみわざでした。 神は何もして下さらないのではなく、滅ぶべき罪人である私たちに、キリストのゆえに、御怒りの剣を下すのを控えて、何もなさらないのです。 

 夜が明け新しい朝をむかえることができること、そのことが計り知れない恵みであるということを深く覚えましょう。 イザヤ書53章を開き、十字架の御苦しみを覚えて祈りましょう。 

H・I

エゼキエル書12章

「彼らは反逆の家だから、見る目があるのに見ず、聞く耳があるのに聞こうとしない。~もしかしたら、彼らに自分たちが反逆の家であることがわかるかもしれない。」3節 

 主の道に歩まず捕囚への道を突き進むイスラエルの民。主のエゼキエルに対する「荷造りをして他の場所に移る」という命令は捕囚をあらわし、その行動によって民が自らの罪深さを悟るかもしれないという憐れみでした。

  預言者イザヤもその働きに召される時、主からこのように言われました。

「行ってこの民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』」イザヤ6:9

 これも、真の悔い改めを持って主に立ち返ることがいかに必要かを逆説的に訴えていることばです。

  主は、どこまでも聖いお方です。そしてどこまでも憐れみ深いお方です。私たちが本当に悔い改めて主のもとに帰ることが出来るように、イエス様の十字架を備えられました。私たちが十字架を自分のこととして捉え、悔い改めるならば、私たちは主の民として「移される」のです。 主のもとに帰り、聖霊によって、主の言葉である聖書を見、聞き、悟ることができるように祈りながら、御言葉にいつも立ち返って行こう。

T・S

エゼキエル書10章

それら(ケルビムについている4つの車輪のようなもの)が行くとき、それらは四方に向かって行き、行くときには、それらは向きを変えなかった。・・・」11節 

 エゼキエルは幻の中でエルサレム神殿にケルビムがいて、その神殿が主の栄光で満たされているのを見ました。 ケルビムとは神の霊と共に自由自在に動きまわる生き物で、そこに神が臨在しておられることを表しています。しかし、そのケルビムは今や神殿から飛び立とうとしているのです。 民の罪ゆえに主の臨在がエルサレムから去り、神のさばきが下ろうとしているのです。 

 エルサレムの民たちのたび重なる神への罪はさばかれなくてはなりませんでした。 罪は私たちを神から引き離してしまいます。 神が共におられるなら、苦しみの中にも希望があります。 どうか神に背を向けて、罪を犯し続けるのではなく、イエス様の十字架のもとに行き悔い改めて、新しくやり直すことができますように。 

「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです。」ヨハネ12:46 

Y・H

エゼキエル書9章

「主は彼にこう仰せられた。『町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行われているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。』」4節

 エルサレムの民が偶像礼拝の罪でさばきを受けるところを、神様がエゼキエルに幻で見せている場面です。 神様の怒りを引き起こしたイスラエルの民でしたが、その中に偶像礼拝を嘆き悲しんでいる人々もいました。 そんな人々を神様は見捨てませんでした。それは彼らが自分の民が犯した罪を悲しみ、悔い改めたからです。神様は罪を嫌われます。そして公正なさばきをするお方です。

 「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。 それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」箴言28:13 

 神様は罪を告白して悔い改める者に赦しを与えてくださいます。 私たちも自分をいつも点検し、罪を見つけたら神様に告白して悔い改める者とならせてもらえますように。

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」Iテモテ2:4 

 イスラエルの民が自らの罪のためにさばきを受けている様子をみて、エゼキエルはとても悲しみ嘆きました。 しかしエゼキエル以上に神様は自ら滅びを選ぶ民をみて心を痛めているのです。 それは神様がすべての人が救われることを願っているからです。

H・M

エゼキエル書3章

「人の子よ。さあイスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。」 4節 

 神に聞き従おうとしないイスラエルの人々のところに遣わされた預言者エゼキエル。神さまは彼らのかたくなな心にひるまずに、神のことばをその通りに語り続けよと彼 を励まされたのでした。 

 私たちも人にあかしをするとき、何とかわかってもらおうと言葉を尽くそうとしま す。 でも一番大切なことは、聖書のみことばをそのとおりにおぼえてそれを伝えることです。 相手の心に届いたみことばを通して、神ご自身がその人のうちに働いてくださるのです。 

「わたしが悪者に『あなたは必ず死ぬ』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、 悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分 の不義のために死ぬ。 そして,わたしは彼の血の責任をあなたに問う。」18節 

  神さま、十字架の恵みにあずかった私たちに勇気を与えて、家族や友人にみことばを 伝えることができるように助けてください。  

Y・H

エゼキエル書2章

「人の子よ、立ち上がれ。わたしがあなたに語るから。」1節 

  預言者エゼキエルに、神様はそう力強くお語りになります。 エゼキエルは神様から聞いたことばをイスラエルの民に語ることを求められていました。 しかしイスラエルの民は神様に反逆していて、到底話を聞いてくれるような相手ではありませんでした。 それでも神様はイスラエルの民を見捨てるようなことはなさらなかったのです。 

  聞く耳を持たない人たちに話をすることは忍耐がいるし、とても大変なことです。 神様はエゼキエルの恐れや、これから味わうであろう困難や苦しみを全て知っていたので、こう励ましました。

「人の子よ。彼らや、彼らのことばを恐れるな。」6節

 私たちが恐れを覚えるときも神様はいつも傍にいて下さり、私たちは何一つ恐れる必要がありません。 

「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。 私はあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」イザヤ41:10 

  今日も傍にいて励ましてくださる神様のことばを聞きつつ歩もう!   

H・M

ヨハネ12章

「見よ。あなたの王が来られる。ロバの子に乗って」15節 

 過越の祭を前にし、イエス様はいよいよエルサレムに入場されます。ロバの子に乗って。 それはゼカリヤ書9:9の実現でした。 人々は、ついに自分たちを政治的圧迫から解放してくれる救世主、メシヤが来たと大歓声で迎えます。 しかしイエス様が実際にしたのは、不当な裁判にかけられ、鞭打たれ、そして十字架上で息を引き取る、といったことでした。 

 イエス様は最初から十字架を見ておられました。それは私たちの罪を、イエス様を十字架につけろと叫ぶ群衆の中にいた私たちの罪を赦すためです。イエス様は武力や権力による表面的な解放ではなく、私たちの本当の必要、罪の赦しを与えるために来られ、軍馬ではなく、弱くて柔和なロバの子に乗られたのです。 

 「主よ。私たちは自分の都合をあなたに押し付けるのをやめて、あなたが与えてくださった罪の赦しを受け取ります。」 

T・S

ヨハネ11章

はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。27節

  病気で死んでしまったラザロのもとに、イエス様がやって来られたのは、ラザロが墓に入れられて4日目のことでした。 主を迎えたマルタは、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。...」(21) と心の内を注ぎだします。 

 マルタは信仰を持っていないわけではありませんでした。 「あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」(22) 「終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」(24) などのことばからも、彼女の信仰がうかがえます。 そんな彼女に、主は「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」(26) と問いかけられました。 マルタは「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」(27) と答えました。それは、すべてを悟りえないながらも、主の問いの核心にせまる答えでした。

 マルタの信仰は、イエス様をキリストとしながらも、今まさに働いてくださる主の御力を見逃していた点では、 不十分であったかもしれません。 それは、ペテロが「あなたは生ける神の御子キリストです。」マタイ16:16、マルコ8:29、ルカ9:20 と信仰告白しながらも、主が捕らえられた時、3度「主を知らない」と言ってしまったことを思い起こさせます。 

 しかし、主は足りない信仰であっても、信じようとする者を、あわれんでくださいます。 死の絶望の中で、悲しむマリヤとマルタとともに、主は涙されました。 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、 私たちと同じように、試みに会われたのです。ヘブル4:14 十字架と復活の勝利の主が、今まさに、私たちの毎日に、働いてくださることを深く信じることができますように、助けてください。

H・I

ヨハネ11章

「イエスは・・・大声で叫ばれた。『ラザロよ。出て来なさい。』」43節

 愛する兄弟ラザロが亡くなり、皆は悲しみの中にいました。 そんな中、イエス様は死後4日も経ったラザロの墓に行き、墓にあった石を取りのけなさいと命じます。 当時ユダヤ人の間では、死後3日間はまだ死者の霊が遺体のそばに留まっていると考えられていたようです。 なので死後4日目になり腐敗が始まると、もう肉体的にも霊的にも完全に死んでいて、生き返ることはあり得ないと信じられていました。 驚くマルタにイエス様はこう言います。 

「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」40節 

 イエス様はラザロを死からよみがえらせました。 

「わたしは、よみがえりです。いのちです。私を信じる者は、死んでも生きるのです。」ヨハネ11:25 

「神にとって不可能なことは一つもありません。」ルカ1:37 

 イエス様も十字架にかかって死んだ後、死からの復活を遂げました。イエス様ご自身がよみがえりであり、いのちなのです。 

H・M

ヨハネ10章

「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。」27節 

 イエス様の証言をずっと聞いていながら悟らなかったパリサイ人や、しるしにばかり注目した人々。罪人の私たちの心も、御言葉をいつも素直に受け入れるほど、真っ直ぐではないのです。

 「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く。」イザヤ30:21

 しかし私たちが自らの罪深い現実を直視し、悔い改めてイエス様の十字架を見上げる時、私たちの導き手であるイエス様の声が私たちの心に届きます。 聖霊によってみことばを思い起こさせ、罪を示し悔い改めへと導いてくださる主ご自身を知り、また知られている歩みは、なんと力強いことでしょう。 

主よ。十字架の救いへと私たちを導いてくださるあなたの声を、へりくだって聞かせてください。  

T・S

ヨハネ9章

「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」15節

 盲目だった彼は、イエス様に出会い人生が変わりました。 イエス様がつばきで泥を作って彼の目に塗り、「行って、シロアムの池で洗いなさい」と命じました。 彼がそのようにすると、彼の目は開かれ見えるようになったのです。

 それを知ったパリサイ人たちは、どのようにして見えるようになったのかと彼に問い詰めます。 パリサイ人たちはイエス様を非難したかったので、何とか非難する理由を作ろうとたくらんでいたのです。 その日が安息日だったので、働いてはいけないのに働いたからイエスは神から出たのではない、と言う者がいたり、盲人が見えるようになったのは嘘ではないかと疑う者もいました。 そんな中でも盲人であった彼ははっきりとこう宣言したのです。「私はいま見えるのです。」

 私たちが霊的に盲目であれば、自分の罪を認めることも、神様を信じることもできません。 しかし、イエス様が私たちに触れてくださるとき、私たちの目は開かれ、自分の罪深さが見えるようになり、またそんな私たちを愛してくださる神様の恵みを見ることが出来るのです。

 アメージング・グレース(おどろくばかりの)という賛美歌の英語の歌詞を直訳するとこうなります。

 "驚くばかりの恵み、なんとやさしい響きでしょう

私のようなどうしようもない者が救われたのです

かつて私は失われた者でしたが、今は神に見出されました

盲目でしたが、今は見えるのです" 

  神様が与えてくださる素晴らしい恵みに感謝しよう! 

H・M

ヨハネ8章

「けれどもあなたがたはこの方を知っていません。 しかし、わたしは知っています。」55節

 イエス様の話を聞いて、信じたはずのユダヤ人でしたが、 自分たちのかたくなさを示されると、たちまちその心は揺れ動きます。 そして主に対して「あなたはサマリヤ人で、悪霊につかれている」とさえ言いつのります。 信じたと言いながら、彼らは、救い主が与える救いが、何のため(何から)の救いであるのか?という大事なポイントを外していました。 それは私たちがとらわれている罪からの救いであり、罪に対する聖なる神のさばきからの救いです。

 罪の悔い改めは、十字架と復活の勝利のめぐみの内に新しくされるために必要な前提です。 そして、砕かれた心で、主を見上げる時、聖書のみことばを知識として知るだけでなく、日々の歩みを通して、聖なる神ご自身がどのようなお方なのかを、深く親しく知るようになるのです。 

 人となられた神(ことば)であられるイエス様に、さらに近づくことができますように、助けてください。 

H・I

ヨハネ8章

「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを知るようになります。」28節 

 イエス様は常に、自分は父から聞いたことを告げ、父の御心にかなうことをすると言い表しています。そしてその終着点は十字架でした。「人の子を上げてしまう」とは人々がイエス様を十字架につけること。十字架につくことにおいても、イエス様は父の御心に従ったのです。

 「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。あなたがわたしを世に遣わされたように、わたしも彼らを世に遣わしました。」ヨハネ17:17-18 

 この先読むことになるヨハネ17章には、十字架にかかる直前のイエス様の父への祈りが記されています。イエス様は私たちの罪の赦しのために十字架に進まれ、私たちを神が神の子となる道を開いてくださいました。そして、今度は私たちをこの世に遣わしてくださいます。 それぞれ置かれている環境は違いますが、イエス様は私たちと共におられ、使命を与え、みことばにより励まし導いてくださいます。イエス様によって遣わされている場所で、主のために生き、主のために学ぶものであろう。

T・S

ヨハネ8章

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」  7節

 イエスさまを試そうとして、律法学者とパリサイ人が姦淫の罪を犯した女の人を連れてきました。 律法によればこれは石打ちの刑に値します。しかし、イエスさまの言葉を聞くと人々はその場にいられなくなり、立ち去っていきました。 

 人はうわべを見るが、主は心を見ます。神の御前では、自分には罪がないと言える人は一人もいないのです。 罪をさばくことのできた唯一のお方イエスはしかし、彼女をさばくことなく、悔い改めて神に従う生活をするように願われました。 そしてご自身が人々の罪のさばきをかわりに背負うため、十字架への道を進んでくださいました。 

「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を、彼に負わせた。」イザヤ53:6 

 神さま感謝します。あなたのみこころは、罪を犯し続ける私たちを罰して滅ぼすことではなく、私たちが罪からはなれて神とともに歩むために どんな犠牲でも払ってくださることです。 あなたの大きな愛にいつも立ちかえり、お従いすることができますように助けてください。

Y・H

ヨハネ7章

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」37-38節 

 それは仮庵の祭りが終わりに近づいていた時のことです。 仮庵の祭りとは、イスラエルの民が荒野で旅を40年間している時に、主が民を守ってくださり、彼らが無事に約束の地に入ることができたことをお祝いする祭りです。 その時の経験を思い出すために、イスラエルの民は木の枝などを集めて作った"仮庵"(小屋)の中で過ごしたりして、荒野での天幕生活を思い出したりしました。

 仮庵の祭りでは様々な儀式が行われましたが、その中の一つに、シロアムの池から水を運んできて、神殿に注ぐというものがありました。 それは荒野を旅したイスラエルの民に、主が常に水を与えてくださったことを覚えて感謝するためでした。 その仮庵の祭りの時に、イエス様は大声で37-38節のように叫ばれたのです。 この時イエス様は、イエス様を信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのです。(39節)

 御霊は私たちの内に住み、真理の道へと導いてくださいます。 仮庵の祭りで注がれた水はすぐ乾いてしまいます。しかし、イエス様が与えてくださる生きた水を飲む者は渇くことがなく、また私たちだけを生かすのではなく、まわりの人たちをも潤すようになるのです。 イエス様だけが私たちの魂の渇きをいやし、満たしてくださる方です。 

 「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」マタイ5:6 

  イエス様の招きに応えよう!

H・M

ヨハネ6章

「主よ。私たちがだれのところに行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。」68節 

 しるしを見てイエス様に付き従ってきた多くの群衆。しかしイエス様の贖いの死、十字架に話が及ぶと多くの者が「これはひどいことばだ」と去って行きました(60節)。そんな中でペテロは、自分はイエス様につく、と表明します。 

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」ヨハネ15:16 

 ペテロのように、自分は主につく、と決断してその道を選び取って行くことは、素晴らしいこと。そして何より、私たちが主を選ぶ以前に、主が私たちを選んでくださったこと、そして、私たちを獲得するために人の子としてこの世界に来てくださり、私たちの罪の代価として十字架にかかってくださったことを心に留めましょう。私たちの信仰は、徹頭徹尾神の恵みなんですね。

T・S

ヨハネ6章

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」 35節

 エジプト脱出後のイスラエルの民を、40年間荒野の旅で支えてくれたのは神が送ってくださったマナ(パン)と水でした。 人生の荒野を旅するあなたを支えてくれるものは何ですか? 家族、友人...? もちろん彼らはとても大切です。でも、同じ人間であり、ずっとそばにいて助けてくれることはできないのです。

  イエスさまは霊的に飢え渇いている者たちにパンを与えるためにこの世に来られました。 イエスさまはパンを与える方であると同時に、新しいいのちのパンそのものでした。 罪によって、生きているあいだもむなしさをかかえ、死んだのちは神のさばきが待っている私たち。 そんな私たちのために身代わりとなって十字架にかかり、罪を帳消しにしてくださったイエスさま。 

「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」37節 

「わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。」40節 

 イエスさまによる罪の赦しを感謝します。

Y・H

ヨハネ4章

「その聖書が、わたしについて証言しているのです。」39節

 安息日に病人をいやしたことによって、ユダヤ人たちは、ますますイエス様を殺そうとするようになりました。(4:18)

 その彼らに対し、イエス様はご自身に関する"証言"を示されました。 証言は4つありました。 

①バプテスマのヨハネの証言 マタイ3:11−12、マルコ1:7−8、ルカ3:16−17、ヨハネ1:26−34 

②イエス様のなさったみわざによる証言 ヨハネの福音書1〜5章でいえば、カナの婚礼(水→ぶどう酒、役人の息子のいやし)、ベテスダでの病人のいやしetc 

③父なる神の証言 マタイ3:17、マルコ1:11、ルカ3:22、ヨハネ1:32 

④聖書による証言 旧約聖書に示されているイスラエルの歴史はすべて、イエス様を指し示している。 

 イエス様がご自身が神のひとり子であられるということに関する証言を示されたのは、ご自身の権威を守るためではありませんでした。 信じようとしない者が、信じるためであり、救われるためでありました。 

 イエス様の十字架と復活のみわざが成し遂げられた今、①〜③の証言は、④に包含されました。 そして、2000年を経た今も、私たちが自分の国のことばで読むことのできるこの聖書は、 イエス様が"世の罪を取り除く神の子羊"であられることを証言しています。

  神の愛がない(神を愛せない、愛さない)者にも、十字架と復活の勝利により、ご自身が世の罪を取り除く神の子羊であられることをお示しくださり、 すべての者を、救おうと招いてくださる恵みを感謝します。信じて救われる者となりますよう助けてください。

H・I

ヨハネ6章

「なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。」27節

 今日の箇所の前には「5千人の給食」と呼ばれている場面が書かれています。 それは、イエス様が大麦のパン5つと小さい魚2匹を5千人もの人たちに食べさせたという奇跡です。 今日の箇所は5千人の給食が起こった次の日の話です。

 イエス様の後を追ってきた群集に、「永遠のいのちに至る食物のために働きなさい」とイエス様は言いました。 私たちが毎日食べる物は食べればなくなってしまうものです。 しかし、イエス様が与えてくださる食物は永遠になくならないもので、私たちの魂を満たしてくれるものです。 それは永遠のいのちへと至るのです。 何をするべきかと聞いた群衆にイエス様はこう答えました。 

「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」29節

 私たちの救い主であるイエス様を信じること、それこそが神様が私たちに求めておられることなのです。 イエス様を信じた者には永遠のいのちが与えられるという素晴らしい約束があります。 

「御子を信じる者は永遠のいのちを持つ」 ヨハネ3:36

 神様、ひとり子であるイエス様を、私たちが永遠のいのちを持つためにこの世に遣わしてくださったことをありがとうございます。 今週も私たちが神様の惜しみない愛を忘れることなく、感謝しつつ歩むことができますように。

H・M

ヨハネ4章

「イエスは彼らに言われた。『わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食べ物です。』」34節

 弟子たちが町で買ってきた昼食を差し出して、すすめた時、主はこう答えられました。 イエスさまの思いは、さっきまで話していたサマリヤの女の人が神さまとの交わりを回復すること、 そして彼女を通して町の人々の心の中にも神さまが働いてくださることに向いていました。 父なる神のみこころを行い、そのみわざを成し遂げるためにこの世に来られた主は、やがてご自身を「いのちのパン」として 十字架の上にささげてくださるのです。 

「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」第一テモテ2:4 

 神さま、十字架による赦しなしでは御前に立つことすらできない、罪深い私たちを愛してくださり、救おうとしてくださってありがとうございます。 信じて従う者を日々新しくしてくださりありがとうございます。今もイエスさまが取りなしてくださることを心より感謝します。 今週も謙遜にそして勇敢に歩むことができますよう助けてください。

Y・H

ヨハネ4章

「イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。」」21節

 イエス様が与えて下さる渇くことがない水を求めたサマリヤ人の女は、意外な言葉をイエス様から聞くことになります。

「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」16節

 突然こんなことを言われて彼女はびっくりしたでしょう。彼女は夫はいないと答えます。 イエス様は彼女の全てをご存知でした。 彼女には夫が5人いたが、今彼女と一緒にいるのは彼女の夫ではないということを知っていました。 出来れば隠していたいようなことをイエス様はご存知だったのです。

 皆さんもこの彼女のように、誰にも言えない様な隠していたいことはありますか? 罪の意識を持ちながらもどうしていいのかわからないときはありますか? そんな時、このみことばを思い出してください。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」Iヨハネ1:9

 私たちの全てをご存知の神様は、私たちの心の底に隠している罪をもご存知です。 イエス様の十字架によって、その罪を神様のところへ持っていき、赦しを得ることが出来るのです。 神様の赦しを経験し、神様との関係を回復し、真の礼拝者とさせて頂こう!

H・M

ヨハネ2章

「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」19節 

 わたしの父の家、すなわち神の家である神殿にはびこっていた不正、礼拝軽視。それを正されたイエス様の父なる神への熱心の行き着く所は、十字架の贖いでした。

「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りてこい。」マタイ27:40 

 イエス様の受難と復活を暗示する言葉は、実際に十字架に掛かるイエス様に向かって投げつけられる罵声に利用されました。しかし、イエス様は神の子でありながら十字架から降りもせず、ご自分を救う事をなさらなかったのです。 

「閣下・・・。三日目まで墓の番をするように命じてください。」マタイ27:63-64

  パリサイ人たちはイエス様の言葉を思い起こし、墓に番兵までつけて監視しました。にもかかわらず、イエス様は復活されたのです。 

「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。」1コリント6:19 

 イエス様が願っておられたのは、ご自分の救いではなく、私たちが救われて聖霊の宮として生きることでした。イエス様が命をかけて獲得された私たちの救いをもう一度真剣に受け止めて、聖霊が私たちのうちに住んでいて下さる者として、御言葉に従い、神様のみこころを求めて歩もう。

T・S

ヨハネ1章

「その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされた。そして、ピリポを見つけて『わたしに従って来なさい』と言われた。43節

 宣教を開始されたイエスさまは、ご自身の弟子を着々と集められました。ピリポはイエスさまに招かれたとき、どうしてすぐに従うことができたのでしょうか。彼は、前日に弟子となったアンデレやペテロと同じ町の出身であったと書かれているので、彼らからイエスさまのことを聞いていたのかもしれません。

 また、ピリポ自身がナタナエルに「私たちは、モーセが律法の中に書き、預言者たちも書いている方に会いました。 ナザレの人で、ヨセフの子イエスです。」と言っているのを読むと、彼は旧約聖書の教えを知っており、 イエスさまにお会いした時、このお方がメシヤなのだと確信したのかもしれません。 聖書を学ぶことで、神さまがどのようなお方であるのかを知り、人がどのような存在なのかを知ることできます。 

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」ヨハネ1:14 

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を解き明かされたのである。」ヨハネ1:18 

 みことばに現されたイエスさまとの交わりを通して、私たちも「わたしに従って来なさい」との主の招きに聞き従うことができますように

Y・H

ヨハネ1章

「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の子羊。』」29節

 皆さんはイエス様をどうやって人に紹介しますか? ヨハネは、「世の罪を取り除く神の子羊」とイエス様のことを皆に紹介しました。 その紹介通り、イエス様は十字架の上で私たちの罪をあがなって下さいました。 

 イザヤ書53章4~6節にこう書いてあります。 「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」 

 イエス様に会ったアンデレは兄弟シモン・ペテロに、「私たちはメシヤに会った。」(41節)と言いました。 メシヤとはキリスト、救い主という意味です。イエス様は私たちの救い主なのです。 イエス様はいつも私たちを招いて下さっています。今週もその招きに応えて歩もう。

H・M

ヨハネ1章

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。1節

この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。4節  

 ヨハネの福音書を今日から学びます。 マタイ・マルコ・ルカの3つの共観福音書に比べ、ヨハネの福音書は独自の観点からイエス様の公生涯を伝えています。その始まりは、創世記1章を彷彿させる、不思議な深みをもったものとなっています。イエス様がどのようなお方なのかを、端的に語っています 。

 科学の発達により、地球の成り立ち、宇宙の成り立ち、存在するすべてのものが、どのように成り立っているか(How) については、解明されたこともたくさんあり、私たちも毎日の生活で、その恩恵にあずかっています。しかし、なぜそのようなものが造られたのか(Why)については、私たちはその理由を見失っています。

 聖書は、"初めに、神が天と地を創造した。"とのことばから始まります。 そして「光があれ。」に始まる、大いなる意志をもった主のみことばによってすべてが造られました。 神はその創造のみわざの集大成として、ご自分のかたちとして私たち人間を造られました。「見よ。それは非常に良かった。」と主が仰せられるようなものとして私たちは造られました。

 しかし、私たちの罪のやみによって、主との関係が失われてしまいました。 イエス様はその罪のやみの中に輝く光として、私たちのあいだに住まわれたのでした。 旧約聖書に約束された救いのことばが、人となられたイエス様という形で、実現し、私たちとともに地上の生涯を歩まれたのです。

 やみの中に輝く光とは、十字架と復活の勝利の主イエス・キリストです。そして、私たちではなく、この方にいのちがあるのです。 私たちが自分の罪のやみに気づき、心から悔い改めて、イエス様を信じるとき、そこに光があるのです。そこにいのちがあるのです。 イエス様のすべてを感謝して受け取ろう。

H・I

詩篇132篇

「そこにわたしはダビデのために、一つの角を生えさせよう。」17節

 この詩篇には「ダビデのために」という言葉が何度も出てきます。民は「都上り」すなわち礼拝にあたって、ダビデの神様への誓い、神様のダビデへの憐れみと約束を拠り所としています。

「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」エペソ2:14-15a

 ダビデへの約束の究極的な成就はイエス様の到来でした。人間のつくった宮になどお住みにならない神様が、あえてソロモンの神殿で語られ、新約の時代にはついに神であるイエス様が人となって、この世界の只中に来て下さいました。

 神殿での犠牲はもう必要ありません。イエス様という完全な犠牲がただ一度捧げられたからです。今や神様との和解の道は開かれ、神様ご自身が私たちを礼拝へと招いてくださっています。悔い改めと感謝を持って毎週の礼拝に集おう。

T・S

詩篇129篇

「彼らは私に勝てなかった。...主は正しくあり、悪者の綱を断ち切られた。」 2-4節

 この詩篇の作者は、ひどい苦しみの中でも主の守りがあることをうたいました。 私(イスラエルの民)は長い歴史の中で、いつも敵対者たちによって苦しめられてきました。 多くの場合その苦しみは、民の不信仰に対する神のさばきや懲らしめでもありました。 しかし民が悔い改めて、主に叫び祈るとき、神は義とあわれみによって救い出してくださいました。 神はアブラハムとかわした「神の選びの民」の契約を守られたのです。

 私たちもまた、神の教えよりも自分のしたいことを押し進めて失敗し、苦しむことがあります。 自業自得のような苦難の中でも、もし私たちがその罪を悔い改めて、神に叫び祈るなら、 神はキリストの十字架のあがないのゆえに私たちを赦し、何度も救い出してくださるのです。 

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」哀歌3:22

 人知で計り知ることのできない、神の義と愛の大きさ、強さを思い、その神に祈ることができる恵みを感謝します。

Y・H

詩篇128篇

「幸いなことよ。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は。」1節

 主を恐れるとはどういうことでしょうか? それは単に主を怖がることではありません。 全知全能、創造主である神が、私たちを一方的に愛して下さり、イエス様の十字架の死によって私たちの罪をあがなって下さった方であることを知り信じるときに、私たちは神様の偉大さを感じ、感謝の心を持って神様を礼拝し、神様への愛や尊敬を抱き、神様に仕えたいと思います。それが神様を恐れることに繋がります。

「今、あなたの神、主が、あなたに求めておられることは何か。それは、ただ、あなたの神、主を恐れ、主のすべての道に歩み、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くしてあなたの神、主に仕え、あなたのしあわせのために、私が、きょう、あなたに命じる主の命令と主のおきてとを守ることである。」申命記10:12-13

 主の道を歩む者とは、毎日主の導き、主のみこころを求めて生きる者です。 この世で言う幸せは、神様の言う幸せとは違います。 神様が与えて下さる幸せが私たちにとって一番良いものであり、主の道を歩むことが私たちにとって最高の幸せなのです。 今日も神様を恐れ、神様のみこころを求めつつ歩もう! 

H・M

哀歌5章

私たちの心から、喜びは消え、踊りは喪に変わり、私たちの頭から冠も落ちました。ああ、私たちにわざわいあれ。私たちが罪を犯したからです。
私たちの心が病んでいるのはこのためです。
私たちの目が暗くなったのもこのためです。
シオンの山は荒れ果て、狐がそこを歩き回っているからです。

しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御座は代々に続きます。
なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。
私たちを長い間、捨てられるのですか。
主よ。あなたのみもとに帰らせてください。
私たちは帰りたいのです。
私たちの日を昔のように新しくしてください。
それとも、あなたはほんとうに私たちを退けられるのですか。
きわみまで私たちを怒られるのですか。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

ともに祈りましょう。

H・I

哀歌3章

「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。」40節 

 自分たちが苦難の中に置かれているのは主の怒りによるのだと自覚し、しかしその中でも滅ぼし尽くされなかった主のあわれみを告白する作者。 あわれみを真に悟ったときに生まれてくるのは、自己卑下や自暴自棄ではなく、罪を素直に告白し、悔い改めて主のもとに立ち返ることでした。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」1ヨハネ1:9

 神様は真実で正しい方なので、私たちの罪を安易に赦したり、受け入れたりすることは決してありません。神様は完全に聖く正しい方だからです。しかし、神様は真実で正しい方なので、神様ご自身が用意してくださったイエス様の十字架と復活を自分のためのことと信じる時、私たちの罪を完全に赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださるのです。 十字架上で解決したこの矛盾は、私たちに悔い改めて赦される道を開いたのです。十字架の赦しの恵みにいつも立ち返り、そこからスタートする毎日こそ、喜びにも悲しみにも勇敢に歩む道です。

T・S

哀歌3章

「主は私を連れ去って、光のないやみを歩ませ、御手をもって一日中、くり返して私を攻めた。」  2-3節

 光なる神さまから離れて歩むとき、待ち構えているのは闇と悲惨です。 罪に満ちた世の中に生きる、罪に満ちた自分。 もし神さまがイエスさまを送ってくださらなければ、今も私たちは闇の中を歩き続けていました。 あわれんで、ゆるしてくださる神さまが、私たちを今日も待っていてくださるのです。

 ~ 私は、自分の罪をあなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。 私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」 すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。~詩篇32:5 

 主の恵みによって、今週も勇敢に歩むことができますように。

Y・H

哀歌2章

「おとめ、シオンの娘よ。私は何にあなたを比べて、あなたを慰めることができよう。 あなたの傷は海のように大きい。だれがあなたをいやすことができよう。」13節

 哀歌は、預言者エレミヤが書いた書物です。 エルサレムの都が破壊され、バビロン捕囚を目の当たりにし、悲惨な現実をみたエレミヤが心を痛め嘆きながら書いたものです。 エレミヤは、神様の怒りがイスラエルの民が犯した罪に対するものだということを指摘します。 神様は罪を嫌われる方であり、罪を犯してしまったものへの神様の怒りは正しいものです。 

「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」ローマ6:23

 私たちは罪を犯したときに悔い改め、神様からの赦しを頂いているでしょうか? イエス様の十字架の死によって私たちの罪は赦されたのです。罪を悔い改めるたびにそのことを思い出して神様に感謝しよう。 罪を悔い改めるものに神様は慰めと癒しをも与えてくださるのです。

H・M

雅歌8章

愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。6節

 愛する男女の語り合いがフィナーレを迎えます。 "愛"と"ねたみ"が対になって語られています。 神はご自身について、"愛"であると同時に、"ねたむ神"であると 聖書のみことばを通して語られています。 しかし一方では、愛は...人をねたみません。(Ⅰコリント13:4) とあります。

 私たち、神に造られたものは、お互いを愛することを勧められてはいますが、 ねたむことは禁じられています。ねたみはお互いを所有しようとする心=罪から生まれるためです。 しかし、すべてのものを造られた神様は、すべてのものをご自分の所有とされています。 だから、私たちが神様から離れていれば、神様は、私たちをもう一度ご自分のものとされようと、ねたむ神となられるのです。 それが、神さまが"愛"であり、同時に"ねたむ神"であるということです。

 罪と死の奴隷となっていた私たちを、もう一度ご自分のものとされようと、ご自分の御子をさえ惜しまずに、十字架の死に渡されたほどの 愛を感謝します。十字架と復活の勝利の恵みの内に、私たちを生かしてくださり、聖なる愛で満たしてください。

H・I

雅歌7章

「恋なすびは、かおりを放ち、私たちの門のそばには、新しいのも、古いのも、すべて、最上の物が あります。私の愛する方よ。これはあなたのためにたくわえたものです。」13節

 夫は妻の美しさを讃え、妻はその讃辞に応えて自らの愛と、夫のためにたくわえた最上の物を ささげます。

「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」エペソ5:22

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、 自分の妻を愛しなさい。」エペソ5:25

 夫婦の関係は、キリストと教会の関係を表しています。キリストが私たちを愛し、十字架によって 罪を赦してくださったことに応答して、私たちも自身の愛と最上の物をキリストにささげるのです。 十字架の恵みをいつも思い起こし、その愛に応えていこう。

H・M

雅歌6章

「汚れのないもの、私の鳩はただひとり」9節 

 神聖な結婚関係に、他者の入り込む隙はありません。そして、イエス様と教会の関係はしばしば結婚関係にたとえられます。 

「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」エペソ5:25-27 

 イエス様はご自分の花嫁として、教会を聖め、一切の汚れのないものとされました。私たちはその教会の一部。罪という私たちの汚れを、イエス様はご自分にふさわしいものとするために、十字架によってぬぐい去ってくださいました。そのめぐみをもう一度感謝し、聖められた私たち自身を、一途に主に捧げて歩もう。

T・S

雅歌4章

「わが愛する者よ。あなたのすべては美しく、あなたには何の汚れもない。」7節

 ついに結婚した二人。夫は自分の妻となった女性を「なんと美しいことよ」とほめたたえます。 二人の喜びが最高となる時です。

 青少年にとって、異性との関係はとても誘惑の多いものです。 どうしていいかわからずに、みんなやってることだからとこの世の流れにまかせていることはありませんか。 一時の感情と本物の愛を見分けることは大切です。本当に親密な関係とは結婚した男女のみに許されたことです。 神さまの用意しておられる「未来の結婚相手」のために、「きよい自分」を守り通すことを選んで、祝福と喜びにあふれる日を待つことができますように。

Y・H

雅歌2章

「揺り起こしたり、かき立てたりしないでください。愛が目ざめたいと思うときまでは。」5節

 雅歌3章では結婚式のことが書かれてあります。 みんなは結婚式に出席したことはありますか? 結婚式は、神様と人との前で2人の男女が夫婦として結び合わされる、神様からの大きな祝福です。 結婚は、神様が人を造られたときに定められたものです。

 「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」創世記2:24

 雅歌に描かれている2人は、結婚するまでに色々と困難もありましたが、待つべき時を待ち、結婚式を迎えました。 みんなも将来の結婚のため、またイエス様を信じる結婚相手が与えられるように、中高生のうちから祈っていこう。

H・M

雅歌1章

「私の愛する方。あなたはなんと美しく、慕わしい方でしょう。」16節

 今日から雅歌を学びます。 "歌の中の歌"という意味のこの書は、男女の愛を歌い上げています。 そして、この書の中には、神という語が一度も使われていないため、(雅歌とエステル記の2書) それは、神とイスラエル、キリストと教会の関係を比喩的にあらわしているとも解釈されています。

 1章から、愛する男女の語り合いが続きます。 私たちも日々、みことばを通して主の語りかけを聞き、祈りを通して、御前に心を注ぎだします。 そして、神さまに背を向けて来た私たちが、御前に出て神さまと語り合うことができるのは、 ただキリストの十字架と復活の救いのみわざによるのです。 キリストを通して、主はご自身の"聖さ"と"愛"を同時にお示しくださいました。

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。」Ⅰヨハネ4:10 

 愛のない私たちを、あなたの愛で満たしてくださり、感謝します。互いに愛し合いなさいとの御声に聞き従う者となりますようつくりかえてください。

H・I

ネヘミヤ記13章

「私はレビ人に命じて、身をきよめさせ、安息日をきよく保つために、門の守りにつかせた。 私の神。どうか、このことにおいてもまた、私を覚えていてください。そして、あなたの大いなる いつくしみによって私をあわれんでください。」22節

 ネヘミヤは安息日を回復させるため、徹底した改革を行いました。なぜなら安息日は神を礼拝 する日であり、それが信仰の原点を考えていたからです。 私たちも、イエスさまの十字架の赦しと復活によって神様との正しい関係を取り戻し、神様に 礼拝を捧げることができるようになりました。

 「この方(キリスト)にあって私たちは、その血による購い、罪の赦しを受けています。これは 神の豊かな恵みによることです。」エペソ1:7 

 毎日勉強や部活、塾や習い事で忙しくなることもありますが、礼拝は私たちの信仰の原点です。 忙しい中でもイエスさまの事を覚え、礼拝することができますように。

M・A

ネヘミヤ記13章

「私は代表者たちを詰問し、『どうして神の宮が見捨てられているのか』と言った。そして私はレビ人たちを集め、もとの持ち場に戻らせた。」11節

 祭司の不誠実、レビ人の職務放棄、安息日の軽視。せっかく城壁は再建されたのに、信仰の再建は一筋縄では行きません。それでもネヘミヤは根気よく祈りながら行動しました。

 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」ルカ15:16 

 人は放っておけば、主から離れよう、離れよう、としてしまいます。信仰の理想に燃えても、すぐに形骸化してしまうこともあります(WWJDというリストバンド、もうだれも巻いていませんね)。だからこそ、私たちは礼拝に来るのです。いや、主が弱い私たちを招いてくださるので、私たちは主を礼拝することによってもう一度十字架の贖いの恵みを確かめ、感謝し、歩みだすのです。私たちは強情で、でも迷いやすい羊。与えられた信仰に感謝して、主に信頼して歩もう。

T・S

ネヘミヤ記12章

「...組と組とが相応じて、神の人ダビデの命令に従い、賛美をし、感謝をささげた。」24節

 ネヘミヤとともに捕囚から帰還した人々によって、ついにエルサレムの城壁が再建されました。 その完成を祝い神さまに感謝をささげる奉献式は、あちこちからエルサレムに集められたレビ人によって 楽器が演奏され、感謝の歌が歌われました。かつてダビデ王が定めたやり方を守り、賛美と感謝があふれる時でした。 今週私たちも、自らの姿をかえりみ、悔い改めと十字架によって赦された感謝にあふれ、主を賛美することができますように。 

「御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」エペソ5:19

Y・H

ネヘミヤ記11章

「すると民は、自分から進んでエルサレムに住もうとする人々をみな、祝福した。」2節

 イスラエルの人たちはくじをひいて、10人に1人がエルサレムの町に住むようにしていました。 まだエルサレムの町は回復途中だったので、住むには危険や苦労が伴い、大変勇気のいることでした。 その中で、自らエルサレムに住むと志願した人々もいたようです。 彼らは、信仰によって全てを神様の御手にゆだね、神様の導きを信じ、喜んでエルサレムの町に住むことを志願したのです。

「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。」ヘブル11:1 

 信仰によって決断するとき、神様は大きな祝福を与えてくださる方です。 イスラエルの民が神様に仕えるためにエルサレムに帰ってきたように、私たちも毎日、学校や職場や家庭、それぞれの場所に遣わされています。 どこに遣わされても、神様が私たちをその場に遣わしてくださったことを信じ、信仰を持って歩んでいこう。

H・M

ネヘミヤ記9章

「そして、すべての外国人との縁を絶ったイスラエルの子孫は立ち上がって、自分たちの罪と、 先祖の咎を告白した。」2節

 イスラエルの民は罪を悔い改めるとともに、天地創造のときからの主のみわざを思い起こし、 主が常にイスラエルの民を導いてくださっていたことを告白しています。長い歴史の中で主があわれんでくださったのに、民は罪を犯したので悔い改めたのです。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」詩篇103:2

 これまで主がどのように導いてくださったかを思い出してみよう。いつも主があわれみ、困難を乗り越え させてくださったことがわかるはずです。そしてこれからも変わらず私たちを導いてくださるのです。

 もし、神様へ不信感を抱いているならばそれを告白し、悔い改めよう。あわれみ深い神様は イエスさまの十字架によって私たちの罪を赦してくださいます。

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。」哀歌3:22

M・A

ネヘミヤ記8章

「夜明けから真昼まで、男や女で理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな、律法の書に耳を傾けた」3節

 城壁修復完成の翌月、聖なる会合を持つ7月1日に民は集まり礼拝しました。そこでの中心は、みことばを聞くこと。捕囚後の時代、礼拝の中心は祭儀からみことばへと移り、かつては男性中心であった聖なる祭りに男も女も理解できる者すべてが集まり、立ち上がってみことばを聞いたのです。

「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」詩篇119:105 

 数々の声に耳を傾けながら、一番大事なみことばを聞き逃しやすい私たちです。しかし、主の偉大さと聖さを思い起こさせ、悔い改めへと導き、イエス様の十字架と復活に私たちを連れて行くみことばこそ、私たちの道の光です。光は決して曲がることがありません。同様にみことばの光に導かれる人生は、たとえ苦難があろうと、真っ直ぐに復活の希望に通じています。そして、その道をイエス様が共に歩いてくださるのです。

T・S

ネヘミヤ記6章

「ああ、今、私を力づけてください。」9節

 この時ネヘミヤは敵からしつこく誘惑されていました。敵はネヘミヤと会見がしたいと誘い出し、城壁が再建する前に殺してしまおうと考えていたのです。 ネヘミヤは5度も誘惑されましたが、信仰によって敵の誘いを断ったのです。 城壁の再建工事を中断することなく、神様から与えられた仕事を最優先したのです。

 みんなはサタンから誘惑や攻撃を受けたり、もうダメだと思った時はあるでしょうか? そのような時にネヘミヤのように神様により頼んで助けを求めよう。 神様は必ず助けを与えてくださる方です。

「私の助けは、天地を造られた主から来る。」詩篇121:2 

  城壁はついに完成しました!それは神様によってなされたことでした。 神様の力の大きさは私たちには考えられないほど大きなものです。 そんな力強い神様が私たちの神様なのです!喜びをもって今週も歩もう。

H・M

ネヘミヤ記4章

こうして、私たちはこの工事を進めたが、その半分の者は、夜明けから星の現れる時まで、槍を手に取っていた。21節

 ネヘミヤたちが、城壁を修復しているのを聞いたある人たちは、怒り、憤慨し、あざけりました。(1) それでも工事が順調に進んでいくと、彼らの妨害はさらにエスカレートしていきました。 ネヘミヤたちを襲って殺してしまおうという陰謀が企てられました。ネヘミヤはみなに「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」(14) と語りました。そして、彼らのうち、半分の者は工事を進め、半分の者は、戦いに備え、槍、盾、弓、よろいで身を固めました。

 私たちの信仰生活は、信じさえすれば、苦労や悩みがなくなるわけではありません。 むしろ、悔い改めて、罪と死から離れ、十字架のキリストに従って歩もうとしたその時から、戦いは始まります。 キリストにある新しい人として恵みの内に歩むことと、古い人(罪と死)との戦いは同時進行であり、 私たちが栄光から栄光へと移されるごとに、戦いはきびしいものになっていくのかもしれません。 

「では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」エペソ6:14−17

 神のすべての武具をとって、この戦いに打ち勝つことができますよう助けてください。

H・I

ネヘミヤ記3章

「そのあとに、ザカイの子バルクが、城壁の曲りかどから大祭司エルヤシブの家の門のところまでの 続きの部分を、熱心に修理した。」20節 

 城壁の再建は、簡単な作業ではなかったかもしれません。しかし、それぞれ割り当てられた場所を 着実に修復していきました。特にこのバルクは熱心に修理したと伝えられています。

 私たちも、それぞれの学校や職場に遣わされていますが、今自分がいる場所で熱心に主に お仕えしているでしょうか。勉強や仕事や家事を通して、私たちは主にお仕えしているのです。

 来週から始まる1週間も、それぞれがいる場所で主にお仕えしていくことができますように。

M・A

ネヘミヤ記3章

「彼らはそれを聖別して、とびらを取りつけた」1節 

 とびらをつけるのは、時間的には一番最後(6:1、7:1)。3章の奉仕者のリストに記されているのはリーダーの名前であり、実際にはもっと多くの名もない人々が自分の分を果たし、城壁再建に努めてきました。そしてそれは、城壁再建への道だけでなく、彼らの信仰再建の道だったのです。

「ですから、わたしの愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだではないことを知っているのですから。」1コリント15:58

 私たちの多くも、歴史に大きく名を残すことはないでしょう。しかし、信仰継承の一端を荷い、奉仕の人生を歩むなら、その労苦は、主にあってむだではありません。それこそが、意味のある人生です。 ネヘミヤ3:5には、協力しなかった人の名前もきちんと書いてあります。

 私たちが自分のためだけに一生懸命になって狭苦しい人生を送っているのか、罪を赦されたことをしっかりと受け止め、主のために自らをささげて真に自由な人生を送っているのか、毎日主に点検して頂いて、御心にかなった道へと導いていただこう。

T・S

ネヘミヤ記1章

「私(ネヘミヤ)はこのことばを聞いたとき、すわって泣き、数日の間、喪に服し、断食をして天の神の前に祈って...」 4節

 ネヘミヤは捕囚されたユダヤ人の子孫で、今はペルシャの王さまの毒味係という大切な役についていました。 彼は故郷エルサレムとそこに残った人々が捕囚から140年たった今も、悲惨な状態であることを知ったとき、心から悲しみ、神に4ヶ月間祈り続けました。彼は、このような結果を招いた民の不信仰の罪を自分のこととして受けとめて悔い改め、神にゆるしを願ったのでした。 ネヘミヤは、神は神の命令を守る者を決して見捨てず、あわれみと恵みを与えてくださる方だと信じて祈り続けました。 

 ~私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」詩篇32

 イエスさまの十字架ゆえに、私たちをも赦してくださる恵みを感謝します。今週も日々、自分の歩みを点検させてください。

Y・H

詩篇126篇

「涙とともに種を蒔く者は、喜びながら刈り取ろう。」5節

 神様がイスラエルの民をシオン(エルサレム)に戻され、シオンの繁栄を戻されたときにイスラエルの民は大喜びでした。口は笑いで満たされ、舌は喜びの叫びで満たされました。(2節) 皆、主をほめたたえています。民は更なる繁栄も望み、期待を胸に主に祈っています。(4節)その喜びを得るまでの理由が種を蒔く人の話にたとえられています。

 種を蒔く人は時が成ると収穫を得ます。でも種を蒔くとは犠牲も伴うのです。自分の大切な種を手放すときに痛みは伴いますが、時が成ると種から芽が出、いずれは豊かな実を実らせるのです。 収穫を得るときに喜びは大きいのです。イスラエルの民はシオンの繁栄が戻るまでに大変な道を通りました。 私たちも信仰が試されるような苦難の道を通ることもありますが、いずれ収穫を得るときがやってきます。そのことを忘れず、十字架で私たちの罪をあがなって下さったイエス様から目を離さずに、みこころを求めつつ歩んでいこう!

H・M

詩篇123篇

「私たちをあわれんでください。主よ。」3節

 都上りの歌が続きます。123篇で詩人は、主へあわれんでくださるよう叫んでいます。 イエス様のたとえ話に、パリサイ人と取税人の祈りについてのものがあります。

 パリサイ人が「この取税人のようではないことを、感謝します。」と祈ったのに対し、 取税人は目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と 祈りました。ルカ18:9-14

 2つの対照的な道があります。現状維持路線で「神さまこれからもこのままうまくいかせてください」と言うのか それとも、十字架のキリストのゆえに、御前に砕かれて、「どうかこんな罪人である私を変えてください。あわれんでください。」 と日ごと主にあって新たにされることを願うのか。

「神のいけにえは砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたはそれをさげすまれません。」詩篇51:17 

 神さま。十字架のキリストによって、罪人の私をあわれんでくださり、変えてくださる恵みを感謝いたします。

H・I

詩篇122篇

「人々が私に、『さあ、主の家に行こう』と言ったとき、私は喜んだ。」1節 

 ここでの「主の家」とは神殿のあるエルサレムの事を指していますが、私たちにとっての 「主の家」は神を礼拝する場、教会であると言えます。

 私たちは毎週当たり前のように教会に来ていますが、本来なら人間は罪人であるため、 神様に近づくことはできないのです。しかし、イエスさまの十字架と復活によって罪が赦され、 神様に近づくことができるようになりました。

「私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって 神に近づくことができるのです。」エペソ3:12 

 毎週礼拝に集う際、イエスさまの十字架と復活を思い出し、喜んでいるでしょうか。 教会で礼拝できる幸いと罪が赦されている喜びをもって、日曜日を過ごせますように。

M・A

詩篇121篇

「私の助けは、天地を造られた主から来る」2節

 助けを求め、ふと立ち止まって溜息、そして空を見上げる。そんな体験をすることもありますね。

 巡礼の旅の途上、見上げれば彼方には山々、そして目指すエルサレムも見える。「私の助けはどこから来るのだろうか(1)」巡礼者はどんな気持ちで山を見上げたのでしょうか。 彼は告白します。「私の助けは天地を造られた主から来る」山から来るのではなく、その山さえ造られた創造主なる主から来るのだと。

 世界の歴史の中で私たちの人生をみるなら、一瞬で消えていく光のようなものです。しかし主は、その一瞬の光である私たちを計画を持って造ってくださいました。

 時に自然の偉大さに圧倒され、自分はなんて小さな存在であるのか、と立ちすくむこともあります。しかし主は、自然によって主の偉大さを示すだけでなく、イエス様と聖書によって私たちを罪から救おうとしてくださいました。 そんな主なる神様が、まどろむことなく私たちを守ってくださるのです。このすばらしい約束を、十字架の贖いとみことばによって受け取り、今日も歩んでいこう。 

T・S

エステル記9章

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」エペソ6:12 

 ユダヤ人の敵がユダヤ人を征服しようとしていたのが一転、ユダヤ人が自分たちを憎くむ者たちを滅ぼすことができました。 神は、ご自身をより頼む者に勝利を与えてくださったのです。 私たちはあまりにも悲しいことやつらいことがあると、神さまはどこにいらっしゃるのか、なぜ沈黙しておられるのかと感じることがあります。 暗やみの支配者サタンは、私たちの思いを神さまから引き離そうと、あらゆることを利用していつも戦いを挑んできます。 

 どうか神の恵みの御手がいつも私たちの人生の中に働いていることを忘れることがありませんように。 イエスさまという救いのかぶとをかぶり、御霊の与える剣である神のみことばによって、圧倒的な勝利者としていただけますように。 

Y・H

エステル記8章

「どうして私は、私の民族に降りかかるわざわいを見てがまんしておられましょう。また、私の同族の滅びるのを見てがまんしておられるでしょうか。」6節 

 宿敵であったハマンは滅びましたが、ハマンが出した"ユダヤ人を滅ぼせ"という命令はまだありました。 この時エステルとモルデカイは自分たちのことだけを考えたのではなく、同じ民族であるユダヤ人のことを考えました。エステルは神様から与えられていた使命を忘れてはいなかったのです。 エステルの申し出を王様が聞き入れ、ユダヤ人たちは自分の命を守る為に、襲ってくる敵を滅ぼすことが許されたのです。 神様は最後までユダヤ人たちを見放さず、大逆転勝利をもたらしてくださったのです。 

 私たちもイエス様の十字架の死、そしてあがないによって、

「圧倒的な勝利者となるのです。」ローマ8:37 

 今日も完全な勝利者であるイエス様に目を向けていこう!

H・M

エステル記5章

「・・・私が設ける宴会に、ハマンとごいっしょに、もう一度お越しください。そうすれば、 あす、私は王さまのおっしゃったとおりにいたします。」8節

 エステルは死を覚悟してから3日3晩、断食をして祈り、その後行動を起こしました。 その結果王の好意を受け、宴会に王とハマンを招くことに成功しました。しかし、エステルは一回目の宴会ではハマンを告発せず、もう一度宴会をすることを 王に提案しました。彼女は神様の時を忍耐強く待っていたからです。断食して祈っていた時、また王に次の宴会に来てほしいと願った時、彼女の内には 一刻も早い解決を願う気持ちがあったかもしれません。しかしそれでもエステルは 自分の思いに従って行動するのではなく、神様の時がいつか祈りによって見極めていたのです。

 結果がわからない問題や、先が見えないことに対して、私たちは早く解決したいと 焦ってしまうことがあります。しかし、すべてのことには神様が備えられた時があるのです。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」伝道者の書3:11 

 忍耐強く、神様の時を待つことができますように。

A・M

エステル記4章

「私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」16節 

 同族民の危機を救うため、死刑になるかもしれない危険を顧みず立ち上がるエステル。確かにヒーロー的(ヒロイン的?)かもしれません。しかし彼女もひとりの弱い人間です。自分のために断食をして、祈ってほしいと訴えるエステルの視線の先には同族民の命の救いがありました。 

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」ルカ22:42 

 人となられた神の子イエス様も、十字架を前にしてこう祈られました。御使いに力づけられながら、汗が血のしずくのように落ち、苦しみながら祈ったイエス様の視線の先には、私たちひとりひとりの罪からの完全な救いがあったのです。

 イエス様が十字架の犠牲と、死に完全にうち勝った復活によって勝ち取ってくださった私たちの救い。それをいつも思い起こし、拠り所として勇敢な歩みをさせていただこう。

T・S

エステル記2章

「このキシュ(モルデカイの先祖)は、バビロンの王ネブカデネザル(によって)捕囚の民とともに、エルサレムから捕らえ移された者であった。」6節

 モルデカイに育てられた美しいエステルは、ワシュティ王妃のかわりとして王に召し出されました。彼女は不安や恐れの中でもモルデカイと彼の信じる神を信頼し、その召しに従いました。 そして彼女の美しさと慎み深さが王の好意を得て、ユダヤ民族滅亡の危機という大事件のなかで、神さまの計画がなされていくのでした。

「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできるお方です。」

 今週も神さまを信頼し、みことばに励まされて歩むことができますように。

Y・H

エステル記1章

 今日からエステル記に入りました!

 バビロン捕囚から解放されたにも関わらず、多くのユダヤ人はペルシヤ帝国(今のイラン)にとどまりました。エステル記には、そんな残されたユダヤ人たちを神様は見放さず、ユダヤ民族を滅亡から救い出して下さった話が書かれています。神様は彼らが苦しみの中でも神様に信頼し、神様を第一にするという信仰をしっかりと見ていたのです。 神様が彼らを助けてくださったのです。

「私の助けは、天地を造られた主から来る。」詩篇121:2

 当時のペルシヤ帝国の王様であったアハシュエロス王は、宴会で王妃ワシュティの美しさを皆の前で自慢したいために連れて来ようとしましたが、王妃はその命令を拒否してしまいます。 それに対して王様は腹を立て、それをみた家臣たちは、「王は王妃の位を彼女よりもすぐれた婦人に授けてください」(19節)と提案します。

 この騒動によって、エステル登場の機会が生まれました。 全ての出来事は神様のご計画のうちに起こったことです。

「主の山の上には備えがある。」創世記22:14

 私たちの人生にも神様の計画があり、神様が備えをして下さっています。今日も神様に期待して歩もう!

H・M

エズラ記10章

「立ち上がってください。このことはあなたの肩にかかっています。 私たちはあなたに協力します。勇気を出して、実行してください。」4節

 イスラエルの民の信仰と礼拝の復興のため、バビロンから4ヶ月かけてエルサレムへ上ったエズラたちでしたが、 ようやくたどり着いた先で彼らを待っていたのは、先に捕囚から帰って来た人々の罪でした。エズラは、一般の人々に加え、祭司やレビ人までもが、罪を行っていたこと覚え、色を失い、嘆き、涙ながらに祈りました。しかし、それだけで終わらず、エラムの子孫の一人エヒエルの子シェヌカヤの提案を受け入れ、罪を犯した人々に悔い改めを迫りました。 こうして、彼らは示された罪を悔い改めました。

 エズラ記の最後の章が、このようにイスラエルの"罪の現実と悔い改め"によって締めくくられているのが印象的です。私たちはどうでしょうか。無意識のうちに、あるいは、神様のみこころにかなわないと知っていながら、悔い改めることができずにいる罪はないでしょうか。 キリストはただ1度にして、永遠に私たちのすべての罪の贖いを成し遂げてくださいました。しかし、赦しのめぐみを軽んじて、いつまでも罪の中にとどまり続けるなら、私たちは未だにキリストを「十字架につけろ」と叫び続けているのです。 悔い改めは方向転換です。ただ嘆くのではなく、古い人(罪)を十字架に釘付け、新しい人として、歩みだす、少しずつではあっても確実に、つくりかえられていく。 

 神様、十字架のキリストを見上げ、悔い改めて、みあとに従うことができますよう、助け導いてください。

H・I

エズラ記9章

「今、こうなってからは、何と申し上げたらよいのでしょう。私たちの神よ。私たちはあなたの 命令を捨てたからです。」10節 

 イスラエルの民は、神様から「異教の神々を信じ忌み嫌うべき行いをする民と結婚してはならない」と 命じられていたのに、それを破ってしまいました。民がバビロンに捕えられていた時、主のあわれみによって 帰還し、神殿再建まで回復できたにも関わらず、主の前に罪を犯してしまいました。エズラは驚きと恐れのあまり放心状態になってしまいますが、その後主の御前に進み出て悔い改めています。

 自分の罪に気づいた時、それをどれだけ深刻に受け止めているでしょうか。神様の前では「まあいいか」は 通用しません。感謝なことに、私たちにはイエスさまがいてくださるので、神様の御前に出て行って罪を 告白するなら赦していただけます。罪に鈍感にならず、心から悔い改めよう。

「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」詩篇51:17

 M・A

エズラ記8章

「私は道中の敵から私たちをたすける部隊と騎兵たちを王に求めるのを恥じたからである。」22節 

 エルサレム帰還の旅路。エズラは旅の安全を導いてくださるのが、ただ主のみであることを信じ、またそこに喜びをもって、王の軍隊の護衛を恥じました。 その結果は...「神は私たちの願いを聞き入れてくださった。(23)」「神の御手が私たちの上にあって、その道中、敵の手、待ち伏せする者の手から、私たちを救い出してくださった。(31)」主に守られたエズラは、民と共に全焼のいけにえを主にささげ、感謝と完全なる信頼の応答をしたのです(35)。

  御言葉を受け取り、信頼し、信仰の決断をして進む。応えてくださる主の憐れみ深さを味わい、それに応答する。人生という旅路を行く私たちもエズラと同じように、主の言葉に信頼しながら、応答し、歩むことが許されています。その根拠は、主がイエス様を身代わりとして十字架につけてくださり、私たちの罪を赦して下さったこと。主の招きの御手に、応えよう。 

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」ローマ8:31(今月の御言葉)

 「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。」詩篇34:8(ぜひ34篇全部を読もう)

 T・S

エズラ記7章

「私の神、主の御手が私の上にあったので、私は奮い立って、私といっしょに上るイスラエル人のかしらたちを集めることができた。」28節

 捕囚から帰還し、エルサレムの神殿も再建されましたが、人々の信仰もまた、再び立て直されなければなりませんでした。 神は大祭司アロンの子孫であるエズラにその役目をさせました。

10節「エズラは、主の律法を調べ、これを実行し、イスラエルでおきてと定めを教えようとして、心を定めていたからである。」

 神の御手が自分の上にあることをおぼえたエズラはとても励まされました。彼は民の信仰をみことばによって整えようとバビロンからエルサレムに向かうのでした。私たちの信仰のためにも、岸本先生が礼拝ごとに聖書から語ってくださることを感謝します。みことばによって臨在の主の恵みを確認し、さらに主にお仕えすることができますように。

 Y・H

エズラ記6章

「そこで、イスラエル人、すなわち、祭司、レビ人、その他、捕囚から帰ってきた人々は、この神の宮の奉献式を喜んで祝った。」16節 

 ついに神殿が完成しました!それは工事が再開されてから4年後のことでした。 神様が権威者たちに働きかけて神殿を完成することが出来たのです。 奉献式で民は雄やぎを12頭捧げ、神様の前で自分たちの罪を心から悔い改めました。その一ヵ月後に民は神様に過ぎ越しのいけにえを捧げました。 民は神様に立ち返り、神様の赦しを受け取り、神様との良い関係を修復したのです。 神様は私たちが神様のところに戻ることを望んでいます。

「あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。」使徒3章19節 

 イエス様が私たちのために十字架にかかってくださったことを覚えて感謝しよう。

H・M

エズラ記2章

「神の宮のために進んでささげ物をした。~すべてのイスラエル人は自分たちのもとの町々に住みついた。」2:68、70 

 神殿再建のため、民は自発的なささげ物をしました。それは大変高価で神殿再建やそこで行われる礼拝に大いに貢献したでしょう。 しかしもっと大事なことは、彼らがそこに住みついたこと、「そこにいる」ということです。

「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」ローマ12:1

 城壁も神殿も壊された故郷。そこに住むのは勇気がいることです。危険もあるでしょう。捕囚先で根をおろした生活もあったでしょう。しかし彼らは、自らをささげて、そこにいるという奉仕をしたのです。何かをするという以上に、私たちの人生に主が介入してくださることを喜び、主の側にいることを喜ぶこと。十字架の赦しを受け取り、自分自身を主の前にさしだすこと。それ自体がすでに奉仕であり、主をたたえることなんですね。

T・S

ダニエル書12章

「思慮深い人びとは大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」3節 

  神様はダニエルに、この世の終わりの時に起こることを話しています。終わりの日には、サタンが敗北し、神様を信じる人びとは永遠のいのちに入れられます。

 私達にはこれから起こる全てのことがわかるわけではありません。ダニエルもそうでした。神様から終わりの日の預言を与えられてもわからないことはたくさんありました。そんな中神様は、信仰によって耐え忍びつつ歩み切ることをダニエルに教えています。

「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」マタイ24:13 

 私達も神様に忠実であることが出来るように祈ろう!

H・M

ダニエル書7章

私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。」13節

  ダニエルが幻で見た4頭の大きな獣はこれからおきてくる4つの帝国(バビロン、メディアペルシャ、ギリシャ、ローマ)をあらわしていました。 彼らはまことの神を信じる人々を迫害し苦しめます。しかし最後には人の子のような方(メシヤ)が来られて、永遠に滅びることのない国を建て、神さまのさばきが行われるのです。

 主よ、十字架のあがないゆえに私たちの罪をゆるし、永遠の御国を受け継ぐものとしてくださった恵みを感謝します。 不安や苦しみの中でも、あなたを信じ続けることができますように支えてください。

 「御名を知る者はあなたにより頼みます。主よ。あなたはあなたを尋ね求める者をお見捨てにはなりませんでした。」 詩篇9篇  

Y・H

ダニエル書6章

「彼は、いつものように、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。」10節 

 ダリヨス王の時代にもダニエルは3人の大臣のうちの1人であり、誰よりも王に信頼されていました。それを面白く思わない他の大臣たちはダニエルを憎み、彼をおとしいれようと考えました。そして王様以外の者に祈る者はライオンの穴に投げ込まれるという命令を制定しました。

 その命令を見てもダニエルは全然動じず、いつものように神様の前に祈り、感謝していました。 ダニエルは王様に従うよりも、神様に従うことを選び取ったのです。 命令通りライオンの穴に投げ込まれたダニエルに向かって、王様はこう言っています。

「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。」16節 

 神様はダニエルをライオンから守ってくださいました。神様が御使いを送り、ライオンの口をふさいでくださったのです。 それはダニエルが神様に信頼していたからです。

 「主は、私の光。私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれが私はこわがろう。」詩篇27:1

 神様に信頼するとき、私たちは恐れることがないのです。私たちの救いである神様にこれからも信頼していこう!

H・M

ダニエル書5章

あなたはこれらの事をすべて知っていながら、心を低くしませんでした。22節

 バビロニア帝国最後の王、ベルシャツァル王は、ネブカデネザル王の娘の子でした。 ネブカデネザル王の治世において、ダニエルが夢の解き明かしをしてから、40年近くたっていました。 王は自分の威信を示すため千人の貴人を集め大宴会を催していました。 そして、主の宮から持って来させた金の器に、酒をそそぎ飲みました。

 また、金、銀、青銅、鉄、木、石の神々を賛美しました。 ネブカデネザル王は、主の取り扱いを受け、 「そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだった者とされる。」4:37 ことを知りました。 ベルシャツァルもその事を知っていながら、心を低くしませんでした。 そして、主に対して、決定的な罪を犯してしまいます。

 私たちは、生まれつき、主が何を喜ばれ、何を悲しまれるか(あるいは怒られるのか)を、ぼんやりとではあっても知っています。しかし知ってはいても、みこころにかなう歩みをできません。 私たちは、自分に関して重要な事であればあるほど、それが大きく変えられることを望まないのかもしれません。 

 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。ローマ7:24 

 しかしそんな私たちに、ただひとつの道が与えられました。 聖書のみことばを通して、私たちに、十字架と復活の勝利の主イエス・キリストが知らされました。 最後の一歩は私たちにゆだねられています。 御前に悔い改めの実を結び、救いの恵みの内に生きる事ができるように祈りましょう。

H・I

ダニエル書4章

「今、私、ネブカデネザルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく 真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだった者とされる。」37節

 王の見た夢は、王が高ぶったために主によってさばかれるというものでした。王が主の支配を 認め、へりくだるならば王の繁栄が長く続くとダニエルによって勧告されましたが、王は主の前に へりくだることをしませんでした。その結果、主によってさばかれたのです。

 私たちも、順調に歩んでいる時に神様の事を忘れ、すべて自分の力によって成功していると 思ってしまうことはないでしょうか。しかし、私たちの歩みは神様によって確かなものとされていて、 恵みのゆえに生かされていることを忘れてはなりません。

 「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」ヤコブ4:6 

  どんなときにも高ぶることなく、主の前にへりくだって歩んで行こう

M・A

ダニエル書4章

「あなたには、聖なる神の霊があるからだ。」18節

 ダニエルはまたも王の夢を解き明かします。しかし前回と違っているのは、王がダニエルが自分の夢を解き明かすことができると知っていることでした。ダニエルたちが一貫して真の神様に信頼し頼る姿、神様の助けによる夢の解き明かしや炎の中から助け出されたことから、王は真の神をたたえるに至ったのです(1-3)。

 「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」詩篇16:8

  私たちにはダニエルたちのような、選りすぐりの人間ではありませんし、小さなことで揺れ動くものです。しかしダニエルたちと同じ、決して揺れ動くことのない神様を信じ、頼ることが出来ます。

 先日岸本先生を通して語られたように、私たちが何かができることが証しなのではなく、苦しみの時にも喜びの時にも主の前に自らを飾らず、正直に申し開きをし、罪が示されたなら悔い改めて、差し出された憐れみの御手にすがって生きる生き方が、そのまま証しになるのです。素直に、神様の前を歩んでいこう。

T・S

ダニエル書3章

「王よ。この者たちはあなたを無視して、あなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝みもいたしません。」12節  

高慢な思いをもったネブカデネザル王は自らの権力をアピールするためか、巨大な金の像を作り人々にそれを拝ませようとしました。 命令にそむく者は、生きたまま燃える炉に投げ込むというのです。

 ダニエルの3人の友人たちは「偶像を拝んではならない」という神さまの命令を守るため、いのちをかけて王の命令には従いませんでした。 怒り狂った王の前に3人は連れて来られました。

 冠婚葬祭、年中行事、会社の安全祈願など日本社会で生きる私たちは、常に偶像礼拝との戦いがあります。 頑固に反発し、対立するのではなく、でも安易にまわりに合わせるのではない、きっぱりとした生き方がしたいと願います。

 弱気で、この3人のようにはいかない私たちをどうか主があわれんで、いつも共にいて励ましてくださいますように。 私たちの歩みを通して、どうか主のみさかえがあらわされますように、今週も助けてください。

Y・H

ダニエル書2章

「まことにあなたの神は、神々の神、王たちの主、また秘密をあらわす方だ。」47節

この箇所は、誰にもわからなかったネブカデネザル王の夢の解き明かしをダニエルがしている場面です。

ダニエルは自分の知恵や経験によって夢の解き明かしをしたわけではありません。それはダニエルもはっきりと断言しています(30節)。

「天に秘密をあらわす神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。」(28節) 

ダニエルは真実の神様を王様の前で大胆に証しているのです。 夢の解き明かしを聞いて、ネブカデネザル王はダニエルが信じている神様こそがまことの神様だと宣言したのです。 私たちもダニエルのように謙遜に神様を証していこう!

H・M

ダニエル書1章

「ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、 身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。」8節

紀元前605年バビロンに捕囚されたダニエルの 自分の経験を通して語られた「歴史的部分(1〜6章)」と「預言的部分(7〜12章)」による構成となっています。 

捕囚された当時、ダニエルたちはまだ15才ぐらいでした。 年端も行かない少年たちが、異教の地に連れて行かれ、偶像にちなんだ別名までつけられ、とても不安だったと思います。 しかし、ダニエルは主のみおしえを守ることを心に定めて、王の食べるごちそうと王の飲むぶどう酒を口にしませんでした。 神様は、そんな彼らを守ってくださり、体力だけでなく、知恵と知識も与えられました。 

「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」 Ⅰコリント10:13 

神様がダニエルを祝福されたのは、主のみおしえを守ることを心に定めて、みことばの通り行ったその信仰によります。 神様は目に見えない、私たちの心の内をごらんになられます。

 新しい生活がスタートします。 ダニエルにならい、試練にあっても、自分が練られる機会であることを覚え、主のみおしえを守ることを心に定めて、みことばを行う信仰と勇気が与えられるように祈りましょう。

 キリストはもっとも重い試練にあっても、御父を信じて十字架の上で死なれ、よみがえられました。私たちも試練の先にあるものを見据えて、さらに強く主を信じることができますように。

H・I

詩篇120篇

「苦しみのうちに、私が主に呼ばわると、主は私に答えられた。」1節

この詩の作者は、異教の中で苦しんでいたようです。戦いを好み、異教を信じる人たちの 中で、作者は過去に主が苦しみのうちから答えてくださったことを支えとし、再び主に 欺きからの救いを求めています。

 私たちの周りでも、異教があふれています。(今で言うと占いや自分自身を頼りとすることでしょうか) それらは非常にむなしく、やがては崩れ去っていきます。 しかし、私たちは昨日も今日もいつまでも変わらない主に信頼できるのです。

 「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。 私の助けは、天地を造られた主から来る。」詩篇121:1、2 

 新しい生活の中でも、変わらず主に信頼して歩もう。

M・A

詩篇119篇

「私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。」15節

みおしえ、さとし、戒め、おきて...。詩篇119篇は御言葉をあらわすこれらの言葉が多く散りばめられています。この世で旅人として歩む私たちを、悔い改めの道、主と共に歩む道、救いの道、義の道に導くのは、御言葉に聞き従うこと、御言葉が私たちの心と行いの基準になることです。

「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」マタイ7:14
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」ヨハネ14:6

そして御言葉が導く道とは、イエス様ご自身です。「イエスを十字架につけろ!」と叫んだ私たちの救いのためにイエス様はこの受難週に十字架にかかられ、イースターに復活されます。私たちに天の御国への道を開いてくださったイエス様ご自身に目を留め応答することが、イエス様と共に歩む道のスタート地点です。

T・S

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