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03あなたへのメッセージ Archive

21 2013年クリスマスに

 みなさま、クリスマスおめでとうございます!

 クリスマスは今や全世界のお祭りとなり、プレゼントを交換したりする機会になっていますが、お祭りというものは、もとの意味が分からなくなって、気分や伝統だけが残っているということも少なくありません。そこで今、改めてクリスマスの「由来」と「意味」をお話しいたしましょう。

1.クリスマスの由来

 「クリスマス」(=キリストのミサ)は、イエス・キリストの誕生を祝う日のことです。キリストは今から2千年前、ユダヤのベツレヘムという村に生まれました。やがて十字架にかけられて死んだ後、三日目に復活されたので、弟子たちは毎年、この十字架と復活を記念する「イースター」を祝いましたが、その後、教会はさらに「クリスマス」をも祝うようになります。

 今年はキリストの誕生から数えて2013年。残念なことに6世紀の修道僧のこの計算には数年のズレのあることがわかっていますが、だからといってイエス・キリストは実在しなかった、キリストの誕生は作り話だ、と唱えるような学者は、今日ひとりもいません。そして今やイエスの誕生は世界共通の、歴史の座標軸となったのです。いや、それはただの習慣だと言われるかもしれません。が、これに代わるふさわしい暦を、おそらく私たちは見つけることができないでしょう。

2.クリスマスの意味

 さて全世界はなぜイエス・キリストの誕生を祝うのでしょうか。それはキリストの誕生と生涯、十字架の苦難と復活の勝利が、全人類にも各個人にも神の赦しと愛と生きる意味をもたらすからです。キリストは救い主です。

 私たちの人生には喜びと輝きの日もあれば、挫折と苦難の暗夜もあります。ささやかな家庭も、こうありたいと願うようにはならず、行き詰まりに直面することもあります。競争に勝って安楽を得たと思う矢先、小さな綻びが崩壊につながるということも起こります。そしてそれは人生の辛い経験ですが、同時にまた、しばしそこに立ち止まって、何のために生きているかを改めて問うことになるなら、それはこの上なくよい時の始まりともなるでしょう。

 自分の力で生きて来たという自負が砕かれて、神の愛を知り、キリストの赦しを受け取るときに、私たちは今までとは違う人生の動機づけを持つことができます。

 それこそがクリスマスの真のプレゼントです。


みなさまにクリスマスの真の祝福がありますよう、祈りつつ。

川越聖書教会 牧師 岸本 紘

20 落穂拾い

 みなさま、こんにちは。

 『落穂拾い』という絵をご存じでしょうか。フランスの画家ミレー(1814-1875年)の傑作の一つです。黄金色に染まりゆく夕暮れどき、真昼の収穫の興奮が遠のいた畑の隅っこに、粗末な身なりの女性たちが三人、腰を曲げて僅かな落穂を拾い集めています。つつましさの中に真実な人生がうかがわれて、豊かな時代を生きる私たちにも懐かしい思いを呼び起こします。しかもそこには人生の悲しみや苦しみを超える不思議な道も示されています。

 さて1857年にフランスの農村風景を写し取ったミレーのこの作品の背後に、古い聖書のことばが息づいていると知れば、あなたはいっそう驚かれるでしょう。

 あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。(レビ記19章9-10節、他)

 畑の持ち主は、落ちた麦穂や落ちたぶどうの実を貧しい人々のためにわざと残しておかなければならない、しかもそれは地主の任意ではなく、まことの神の明確な良き命令だというのです。三千数百年以上もの昔から、こまやかな神の意志が人類に示されていて、私たちがこの絵に気高さを感じるのも、そこに愛の神の存在を感じるからにほかなりません。

 神がそのようなお方であるならば、現代の私たちのそれぞれの日々に対しても、神はご自分の思いを示しておられるでしょう。だから私たちは、神の求めにふさわしく生きていない自分の不幸に、しばしば気づくのです。

 経済格差や病気など山積する社会問題解決のために、人類は今なお改革と整備の試行錯誤を続けています。それらはきっと実を結ぶ日が来るでしょう。

 けれども個人としての私たちの改革はどうでしょうか。おごり高ぶって人をおしのけるか、失望と恨みに凝り固まるか、それ以外に道がないかのように生きている私たちであれば、身近な家族や友人との間に日々必要なのは、まことの愛の神の助けです。


 あなたと身近な人々との間に、神の祝福を祈りつつ。

川越聖書教会 牧師 岸本 紘

19 2013年イースターに

 みなさま、こんにちは。

 あなたは愛について考えたことがおありでしょう。愛は私たちの人生を左右するテーマです。新約聖書の『コリント人への手紙13章』は、愛の賛歌と呼ばれる有名な個所ですが、以前に翻訳した本からその一部をご紹介いたしましょう。

「愛は礼儀に反することをしません」

(コリント人への第一の手紙13章5節)

 「礼儀に反すること」とは何かを、私は小さな子どもから学びました。両親に連れられての散歩中に、彼は何かが飲みたいと言って泣き出しました。父親が子どもを売店に連れて行く。すると突然、のどの渇きはなくなって、何かを食べたいと言い出す。そうしてパンを買ってもらう。ところがこんどは、もう歩けないと言ってぐずる。父親が背中におぶってやると、降りたいと言う。降ろしてやると、地べたにひっくり返ってわめく。とうとう子どもはおしりをぶたれることになりました。彼はわけもなく泣き叫んだのです。

 ところで残念なことに私たちは、このようなわがままは子どもだけのことで、自分には関係がないと思います。あるいは「礼儀に反すること」は、すべての人の生まれつきの抜きがたい性質だと考えて、安心してさえいます。なんと私たちは、気まぐれ、要求、願い、非難などでお互いを苦しめ合うことでしょうか。

 ダビデ王について旧約聖書にこんなことが書いてあります――彼がまだ逃亡の日々を送っていたころ、ある日、故郷ベツレヘムの井戸の、あの澄んだ水が飲みたいという無茶な欲望におそわれます。三人の勇士がいのちを賭けて敵陣に侵入し、水を手に入れてダビデのもとに持ち帰ったとき、ダビデは彼らの勇気の前に、自らのわがまま勝手を深く恥じ、その貴重な水を飲むことができませんでした。神の人と言われたダビデでさえもがこのようであったとすれば、私たちの無作法はどんなことになるでしょうか。

 この性格を癒すのには、ただ一つの荒療治あるのみ。私たちは、生まれながらのこれらの性質を、イエス・キリストとともに十字架につけていただくほかありません。そうするならば、神の愛が私たちの心に注がれます。この力強い愛はもはや私たちに「礼儀に反する」ことをさせません。

 「主よ。どうか私たちを、私たち自身から救い出してください。アーメン」  

【ヴィルヘルム・ブッシュ著『365日の主』173頁より】

あなたに神の恵みがありますよう。

川越聖書教会 牧師 岸本 紘

18 2012年クリスマスに

 みなさま、こんにちは。

 残念なことに中高生のいじめ自殺があとを絶ちません。元気はつらつたる若者たちが友を死に追いやるというありさまを、鮮明なテレビの画像で毎日のように見せられます。科学や技術が進歩しても、人間は遠く取り残されているのです。私たちはいったいどうすれば、神が与えてくださった本来の自分を取り戻せるのでしょうか。

 教会に来ている夫婦がけんかをしたときに、小さいこどもが言ったそうです、「お母さん、イエスさまは『人を愛しなさい』って言っているじゃないの」。

 こどもはみな無垢な心で生まれるのに、私たち親が腹を立てたり、他人を悪く言ったりするのを見聞きして育つうちに、不満や意地悪に染まっていくのです。いじめは中高生だけではなく、お母さんがたの間にもあるということです。お父さんの会社にもあるそうです。悲しいことに人間は、親から子、子から孫へと、無慈悲の再生産を続けていきます。

 子は親の背中を見て育つ――それを否定する人はだれもいません。けれども、他人への憎しみがとめどなく湧き出して、だれをも信じず、だれをもゆるさず、だれにも心を開かないこの自分が、こどものよい手本になるでしょうか。しかも私たちは、この根深い性質を自分で変えられるでしょうか。私たちはだれもが、自分自身を静かに考え直してみなければなりません。

 キリストを信じるとは、「キリストとともに死に、キリストとともに生きる」ことだと言われています。愛に満ちたキリストが私の罪の代償となられたので、私はもう、かたくなな自分にしがみついているのはやめます、ということです。キリストのゆるしと愛にこたえて、自分をキリストの十字架に重ね合わせ、今までの人生を一度おしまいにしていただくのです。こうして、他人を恨み続ける自分、正義感のかたまりのような自分を、捨ててみようと、そっと心に決めます。それからはことあるごとに、自分を変えてくださいと神に助けを祈り求めます。こうして、人生との新たな取り組みと冒険を、毎日スタートすることによって、人は「永遠のいのち」を生き始めるのです。

 クリスマスは、キリストを私たちの心に迎え入れる日です。キリストこそは、人類への神の最大のクリスマスプレゼントだからです。ですから聖書にはこう書かれています。

  「神はじつにその独り子(キリスト)をお与えになったほどに、世を愛された。

   御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネの福音書)

あなたに神の恵みがありますよう。

川越聖書教会 牧師 岸本 紘

17 リオのキリスト像

 みなさま、こんにちは。

 あなたはリオのキリスト像をご存じですか。ブラジル第二の都市リオデジャネイロの丘の上に、1931年、独立百年を記念して建てられました。キリストは両手を広げて立っています。私たちプロテスタントの教会では、像を拝んだりあがめたりはしませんが、このキリスト像を見るときに実際に地上に生き、聖書にその記録が残されているキリストがどんな方であったのか、どんな方であり続けるのか、を思い起こさせます。

 第一、キリストは地上を歩んだとき「すべての人よ、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげます」と言い、両手を広げて人々を招きました。私たち人間は失われた者、不安と心配が絶えない者たちです。またキリストは「あなたの罪はゆるされた」と言われました。なんとありがたく、実質のあることばではありませんか。

 第二、キリストは、ことばと行いにおいて不遜で、神を冒とくするという理由で処刑されました。しかもそのとき裁判を行ったローマ総督ピラトは、キリストには死に当たる罪は何もないと断言さえしたのに、です。キリストは両手を広げて十字架にかかりました。過激派革命家やならず者の処刑がひんぱんに行われても、その一部始終を記録したりしなかった時代に、キリストの処刑だけは詳細に書き残されました。その十字架の記録は残酷で、美しさのかけらもないものです。罪の全くないキリストが絶望の内に死んだとき、人の世のやみ、心の暗黒、ねたみ、憎しみ、敵意などがそのまま現されたのです。これがキリストの十字架でした。

 第三、十字架の悲惨は、最後のことばではありませんでした。キリストは罪と死に打ち勝ってよみがえり、ゆるしの勝利を高らかに示しました。今やキリストは、十字架から解き放たれた両手を広げて、私たちを招いています。その両手には釘あとが残っています。ゆるしのしるしです。 

 コルコバードの丘のキリスト像、その正式名称は「贖い主 (あがないぬし) キリスト」です。私たちを救うために「代わりに代価を払った」からです。事実キリストは、常に変わらず私たちすべての人の贖い主です。オリンピックが終わった今、次回サッカーワールドカップや、次回オリンピックに向けて、世界の目はブラジルに、そしてキリストに、引き寄せられることでしょう。

 みなさまに贖い主キリストの平和を祈りつつ。

川越聖書教会 牧師 岸本 紘

16 2012年イースターに

 みなさま、こんにちは。

 毎年、春になると、世界中のすべてのキリスト信者が「復活節・イースター」を祝います。それは冬を耐え抜いた春の祭典ということではありません。キリストの十字架をしのんで「受難週」を過ごした後、その復活を喜んで「イースター」を祝うのです。ことしのイースターは4月8日です。

 十字架にかかって死んだキリストが三日目によみがえった、などということはとても信じられないとお思いかもしれません。けれどもキリスト教は「理性」をこよなく重んじながらも、その最初からずっと変わらずキリストの復活を伝えてきたし、その信仰のために多くの人々がいのちをかけさえしました。キリストが復活しなかったならば、その信仰には意味がないと、人々は今でも考えているのです。

 けれども、それは、驚くべき奇跡が起きたので信じる、ということでもありません。キリストの復活にこめられた意味を知ってこそ、私たちは意義深い信じかたができるのです。そこで今、キリストの復活が私たちにもたらした意味を手短にお話しいたしましょう。

 第一、私たちは遅かれ早かれ、人生の表舞台から去って行き、だれもが死に定められています。けれども人はそれを当然と割り切ることはできません。宗教改革者ルターは言いました、「誰でもみな、ただひとりで死なねばならない。そのとき私はあなたとともにいないし、あなたも私とともにいない。耳には互いの叫びが聞こえる。それなのに、だれもがひとりで行くことになる」。

 業績や才能も我々の死を意味あるものにはしません。輝かしい経歴や能力があり、それが今の自分を支えているとしても、それらによって死を乗り越えることができるわけではありません。どこへいくのかを知らずに暗やみに放り出される、それが人生の最後に遭遇する死であるとすれば、人生はなんとさびしいことでしょうか。

 自分は修行して悟りを開くから大丈夫と考えますか。しかし悟りを開く前の不始末、罪、失敗、足りなさ、至らなさは帳消しにできず、そのまま残っているのです。

 第二、キリストは思想、哲学、政治、福祉、音楽、絵画、文学などあらゆる分野に、歴史上最大の影響を与えた人物です。その点でキリストは傑出しているのです。

 しかもキリストは修行者ではありませんでした。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」(新約聖書 ヨハネ1:29)と呼ばれています。私たちの足りなさ、至らなさ、不始末、罪のすべてをご自分の身に負われたのです。それは、キリストが罪を犯したことのない方であったからこそできたのです。キリストは私たちを罪と死の束縛から解き放つただ一つの手立てとなられました。

「神は、罪を知らない方を私たちのかわりに罪とされた。それは私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(新約聖書 第2コリント5:21)。

 この罪のないお方が私たちのすべての罪を負って処罰を受けてくださいました。
「わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか」、そう叫んでキリストは死なれました(新約聖書 マタイ27:46他)。

 第三、こうして死んだままであれば、キリストの死が私たちの罪の身代わりであったという証拠はどこにもありません。罪と死と絶望を断ち切って復活されたからこそ、キリストは罪のない神の子であり、また、私たちにゆるしを与えることができるのです。私たちは、この方の赦しと救いを信じて、あれもこれもすべての罪と思い煩いと重荷を、この方にまかせることができます。そして私たちはここに人生の新しい土台と新しい動機づけを見いだすことができるのです。これが、キリストの復活がもたらす意味です。

 キリストについて知りたいこと、確かめたいことはまだまだおありでしょう。
けれども今お話ししたことは大切な最初の一歩です。まずここから始めてみましょう。この一歩を踏み固めて次に進みましょう。そして、この喜ばしいイースターの祝いにあなたも加わってくださいませんか。

みなさまの上に、神の祝福を祈りつつ。

川越聖書教会 牧師 岸本 紘

15 2011年クリスマスに

 みなさま、こんにちは。

 悩み多かった2011年も終わりに近づいています。希望に溢れて一年をスタートしたとき、このような大きな試練に見舞われると、だれが予想したでしょうか。以前テレビで見た漁師さんたちの家のにぎわいが、大波に呑まれてしまうなどと、だれが思ったでしょう。放射能を避けて家を離れた子どもたちや親たちの無念。丹念に耕し慈しんだ田畑や、どこもわるくない愛着の町を、放置しなければならなかった人々の悲しみ。これらは何によって埋め合わせることができるのでしょうか。こんなときにクリスマスを祝う気にはなれないと言う人々もいるでしょう。そのとおりです。

 しかし、それでもクリスマスはめぐって来るし、キリストの誕生を祝うクリスマスには、楽しみ以上の意味があるのです。

 第一、キリストは、そのことばとわざによって、神とともに生きる姿を私たちに示すため、人として生まれました。それによって私たちは、大いなる父であり愛と聖さに満ちた神を知り、神とともに生きることを学び取るのです。うれしいことです。

 第二、罪のないキリストは、十字架によって、私たちが受けるべき処罰を受け、私たちの罪を清算するために生まれました。ありがたいことです。

 第三、キリストは、人としての苦しみをつぶさに経験し、さらに復活によって死の悲しみへの勝利を示すために生まれました。アメイジング・グレイス(驚くばかりの恵み)です。

神はそのひとり子を世に遣わし、
その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。
ここに神の愛が示されたのです。
(新約聖書『ヨハネの手紙第一』4:9)

 私たちは、試練を避けて通ることはできません。進路、経済、健康、事故などの戦いが、次々に外からやって来ます。さらには自分自身が不幸のもととなって家庭や人生が壊れていくことのあるのを、知らないわけではありません。試練と不幸は、外からも内からも私たちに襲いかかるのです。

 しかしながら救い主キリストが、外からの試練や悲しみをともに担い、私たち自身から出たトラブルをゆるし、ともに生きてくださるなら、私たちは新しいいのちと希望を持つことができるのです。ことしのクリスマスがそんなときでありますように。

みなさまの上に、神の祝福を祈りつつ。

川越聖書教会 牧師 岸本 紘

14 頼るべきものを失ったときに

神よ。私の叫びを聞き、私の祈りを心に留めてください。
私の心が衰え果てるとき、私は地の果てから、あなたに呼ばわります。
どうか、私の及びがたいほど高い岩の上に、私を導いてください。
(旧約聖書『詩篇』61:1-2)

 みなさま、こんにちは。

 地震、津波、原発事故に遭われた多くの方々に、 一瞬にして愛する肉親や友を失った人々に、心からお見舞いを申し上げます。
一日も早く復旧が進み、元気を取り戻してくださることを、お祈りいたします。
苦しんでいる人々を前にして、私たちはことばを失います。
慰めることも励ますことも、とうていできない無力を痛感します。

 ところが被災地では、不思議なことも次々に起こったようです。
悲しみと絶望の中で慎み深く振る舞う人々の姿が私たちの心を打ち、全世界を驚かせました。またそこには、自分よりも過酷な経験をしている人たちを思いやり、いたわる人々が、何人もいたのです。自分の苦しみを振り切って救援に当たった人々のことを、私たちはたくさん見もし聞きもしました。

 あの日からまる一か月、我々のところにようやく届いたメールがありました。
津波に襲われて医療器具も通信機能も失って孤立化し、僅かなスタッフで250人の患者さんを屋上に誘導し、流れて来た米俵や食料を拾い集め、沢の水を汲んで煮沸しては、患者さんたちに食べさせ飲ませ、救援隊が来るまでの一週間をしのぎ切った、そしてさらに一か月の苦難の日々を生き延びて、ようやく時間を見つけて仙台に出て来て、ネットカフェで今この返事を書いている......、そんな知らせでした。

 心を揺さぶられました。
被災地の戦いが続き、放射能の心配も絶えない今、私は説教がましいことを言いたいとは思いません。逆にまた、神への不信や不満を言いつのろうとも思いません。人生はなぜか苦悩と痛みに満ちている、けれどもその中で、人はなぜか高貴に振る舞うことがあるらしいのです。どん底にいるときにも、勇敢でありたい、つぶやかず気高くありたい......。そんな祈りが心に湧いてきます。頼るべきものを失ったときに、まだ生きる望みがあり、まだ生きる支えがあれば何と幸いなことでしょうか。

あなたに、神の祝福を祈りつつ。

川越聖書教会 牧師 岸本 紘

13 2010年のクリスマスに

 みなさま、こんにちは。

 冷たい雨の晩、黙々と帰宅を急ぐ人々にまじって、駅のエスカレーターをのぼっていました。ふと見回すと、私も含めて全員がカバンやバッグを持っています。人間は不思議な存在だと思いました。他の動物が手ぶらで生きていけるのに、私たちには何かしら「外付け」の入れ物が必要です。しかも中に入っているのが楽しい本やケータイだけならよいのですが、仕事や課題、それにまつわる種々の感情も入っていて、「重荷」になることもしばしばです。

 こうして生涯、荷物に挑戦し挑戦され、得意になったり悩んだりする私たちは、果たして自力で人生を真に幸いに生き抜けるのでしょうか。この瞬間でさえ、家族や親せきの顔を思い浮かべるだけで、「重荷」を感じないでいられる人はいるでしょうか。だれの心にも憂いが広がり、だれの心にも、祈りたい思いが湧きおこるでしょう。

 イエス・キリストは言われました、

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。
わたしは心優しく、へりくだっているから、
あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。
そうすればたましいに 安らぎが来ます。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」
(新約聖書『マタイの福音書』11:28-30)

 この不変不滅のことばによって、キリストは私たち全人類に二つの助けを提供しておられます。
 第一に、私たちの重荷、私たち自身の至らなさをよく知って、助けとゆるしを与える。
 第二に、キリストとともに人生を勇敢に生きるよう、招く。

 十字架に死なれた、罪なきキリストは、私たち人間の悲惨とその原因を十字架の上にまざまざと示したばかりか、同時にその処罰を自ら引き受けてくださったので、私たちは重荷をおろして、あらたな人生を始めることができます。私たちには、真のゆるしが不可欠です。
 さらにまた、キリストは私たち一人ひとりを知っていて、毎日私たちを教え導いてくださいます。私たちには、力強い真の導きが不可欠です。 人類の歴史において変わることなく今も、キリストは私たちを招き、キリスト十字架のもとに重荷をおろすよう、しきりに招いてくださっているのです。

 クリスマスが近づきました。キリストの降誕を祝う日です。最近教会に来始めたある人は 「ことしこそ、心からクリスマスを祝える」と言いました。キリストの意味を知ったからだそうです。どうかあなたにもそうなりますように。クリスマスには教会におでかけください。

あなたに神の祝福を祈りつつ。

川越聖書教会 牧師 岸本 紘

12 砕かれた霊、砕かれた悔いた心

 みなさま、こんにちは。

 "3百万年前の猿人が石器を使っていた?"
最近、そんなニュースがありました。興味深いことです。これからは、従来の発掘による方法に加えDNAなどの研究も加わって、私たち人間の起源に迫ろうとする試みは、どんどん進んで行くでしょう。それがさらに医学などにも用いられて難病の治療や予防に役立つことも期待できるでしょう。

 しかしながら、それだけで人間を解明できるのか、何百万年という長いものさしを使えば人間を説明し尽くせるのかという思いも残ります。人間の起源を生物学的に説明できたとしても、私たちの悩みが解決するわけではありません。そして聖書は、私たち人間にとって最も価値あることは「砕かれた心」だと語っています。

神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。
神よ。あなたは、それをさげすまれません。
(旧約聖書『詩篇』51:17)

 「砕かれた霊」「砕かれた悔いた心」――それは、意気消沈した、落ち込んだ心でないことは言うまでもありません。神の前に高ぶりを捨てた、謙虚な心のことです。

 せっかくの美しい大型画面のテレビが、人間の不条理や罪深さのニュースを伝えない日はありません。だれの人生にも、人間ならではの難しい問題や重荷がのしかかっています。人間社会は、罪深さの中でさばかれているのです。死後にさばきがあるという、先のことではなく、「すでにさばかれている」というキリストのことばは、全くそのとおりというほかありません(ヨハネ3:18)。しかもさばきとは、「罰が当たる」「事故に遭う」という、外側から降りかかることではなく、私たちの内面や人柄からあふれ出るトラブルの数々であり、また、3百万年の人類の歴史の結果ではなく、きのうきょうの自分のせいだと認めなければなりません。そうと知るとき私たちは「砕かれた心」を持つ人になっているのです。

 私たちの人生には「神よ。どうしてこんな不幸を見逃しておられるのですか」と叫びたくなるようなことがあるのも事実ですが、ほかの人のせいにできない私たち自身の足りなさを認めた「砕かれた心」こそが、真に幸いな第一歩ではありませんか。神は、私たちのそのような心を待っておられるのです。

みなさまの上に、神の豊かな祝福を祈りつつ。

川越聖書教会 牧師 岸本 紘

11 日ごとの糧を

 みなさま、こんにちは。

 あなたは映画『十戒』をごらんになったことがあるでしょうか。紀元前15世紀または13世紀、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民が、約束の地を目ざして40年も荒野をさまよったときに、神は毎日「マナ」という食物 ― これは何だ、という意味 ―を降らせて彼らを養われました。神は彼らに毎日の必要を、間違いなく毎日供給されたのです。民の中には翌日の分までため込む者がやはりいましたがそれらには虫がわき、悪臭を放ち、とても食べることができなかったといいます(旧約聖書・出エジプト記16章)。
 このようにして神は、「生きる」とはどういうことかを実地訓練で示されたのでした。
 
 また、あなたはキリストが弟子たちにおしえられた『主の祈り』をご存じですか。

          天にいます私たちの父よ。
          御名があがめられますように。
          御国が来ますように。  
          御心が天で行われるように地でも行われますように。
          私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
          私たちの負い目をおゆるしください。私たちも私たちに負い目のある人たちをゆるしました。
          私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
          国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。 アーメン  
          (新約聖書『マタイの福音書』6章9-13節)

 この祈りの真ん中あたりに、「私たちの日ごとの糧を、きょうもお与えください」ということばがあります。なんとつつましい祈りでしょうか。もちろん、まさかのときの備えはだれにも必要でしょうし、特に今日のような不況の時代にはいっそう切実でしょう。けれども、豊かに蓄えれば万事が安心ということでもありません。資産が多いために争いの絶えない家を、私たちは知らないわけではないのです。持ち物の多少に関わりなく、そしてお金だけでなく、健康や仕事も含めて「日ごとの糧を、きょうもお与えください」と祈りつつ生きること、それが私たちのあるべき姿だと、キリストはおしえてくださっています。

みなさまの上に、神の豊かな祝福を祈りつつ。

川越聖書教会 牧師 岸本 紘

10 2009年クリスマスに

 みなさま、こんにちは。

 教会でツアーを組んで徳島県鳴門市の「大塚国際美術館」を訪ねました。カレーやドリンクなどで知られる大塚製薬の社長(故人)が莫大な私財を注ぎ込んだとのことですが、それは山肌にめり込むようにしてそそり立つ巨大でユニークな建物でした。そしてそこには、専門家たちによってえりすぐられた世界の名画千点余が、陶板(タイル)に原寸大で精密に複写印刷されて、時代別、テーマ別に展示され、またミケランジェロが『天地創造』を描いたシスティーナ礼拝堂内部や、ジョットーによるスクロヴェーニ礼拝堂内部などが、現物大で再現されています。私たちは美術家の町田俊之氏に同行と解説を依頼し、二日間にわたってそれらを見て歩きましたが、まったく時間が足りないほどでした。また、どのみちコピーではないのかという、行く前の不安はみごとに打ち砕かれ、ただ驚嘆と感動の連続であり、その上、夜は阿波踊りを見、最後は鳴門の渦潮を見るという、盛りだくさんの楽しいツアーになりました。

「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」
(新約聖書『ヨハネの福音書』8章12節)

 さてそこで私が改めて驚いたことは、聖書やキリストを題材にした絵が圧倒的に多かったことです。他に肩をならべうる人物は皆無で、ただキリストだけが群を抜いていて、「大塚さんはキリスト信者だったのですか」という質問が出るほどでした。しかしそうではなく、世界中の貴重ですぐれた作品を集めてみると、結果としてキリストの絵が多かったということなのでした。
 キリストほど世界の歴史に大きな影響を与えた人はいないという事実を、この美術館が期せずして証しすることになったと言ってよいでしょう。キリストは美術だけでなく、音楽も文学も思想も、法律や人権や平和、福祉、国際援助、終末医療などなど、あらゆる分野の世界標準となっています。世界はキリストの感化を抜きにしては成り立たなかったと言っても決して言い過ぎではなく、また、今さらこれらを除外して世界の仕組みを新たに作り直すということができないほど、その影響はこんにちの世界に深く浸透しているのです。世界各国にはそれぞれの文化があり思想がありますが、どの国であれ、キリストの影響と恩恵を受けていない国はありません。

 ご承知のようにクリスマスは、このキリストが自らを低くして生れたことを記念するときです。世界に大きな影響を与えたキリストが、十字架で死ぬために生まれたということは、私たちの頭で考え出すことのできない、不思議で逆説的なできごとです。
 キリストは言われます、「わたしは世の光です」。

クリスマスの真の祝福が、みなさまのうえに豊かにありますよう。

川越聖書教会 牧師 岸本 紘

09 キリスト・イエスによる贖いのゆえに

 みなさま、こんにちは。

 夏が来ると60数年前の戦争のことが語られます。敗戦当時の日本は大変な貧困の中にありました。子どもであった私もその時代を生きていましたが、どういうわけか、年の違わない兄と、どこへ行くにも肩を組んで歩いていました。車が少なかったからできたのかもしれません。貧しさの中にも、なんと純真で幸せであったことかと、懐かしく思い出すのです。
 さて「人間は本来、良いものだ」とよく言われます。そのとおりです。思い出の中の私たちはみな良いものです。けれども本来がなんであろうとも、現実の私たちは良いとばかり言えないのではないでしょうか。本来は良いのだと自分に言い聞かせても、それで急に良い人間になれるわけではありません。不平や不満や憎しみが、私たちの心をますます不機嫌なものにしているほうが多いのではないでしょうか。おだやかな平常心も、何かのはずみで波立ちます。私たちの心は、泥の沈殿したコップの水のように透き通っていながら、ひとたび揺すぶられると、あっという間に濁ってしまうのです。

「すべての人は罪を犯したので、神の栄誉を受けることはできず、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
(新約聖書『ローマ人への手紙』3章23-24節)

 だれをも信じることができずに、かたくなな心で生きている人もいるでしょう。挫折に苦しんで落ち込んでいる人もいるでしょう。こうして互いの間の亀裂はいよいよ深まり、そこから争いや離別が生じるのです。本来良いはずの私たちが、実際には良くはない。私たちはなんと矛盾に満ちた存在でしょうか。ある哲学者は「戦争をなくすことはできるか」との問いに答えて「我々自身が争いに満ちているのに、どうして戦争のない世界を実現できるだろう」と語っています。そうかもしれません。こうして私たちは、本来の良さを願いながら、現実の苦闘を生き続けるのです。
 持ち前の力で自分を根本的に良い人に変えることはできない。罪のない人はいない。人生をまじめに考えるならば、どんなにすぐれた頭脳の持ち主であっても、どんなにお金持ちであっても、この事実を認めることでしょう。そして私たちはこのゼロ地点からスタートするほかありません。そのときに私たちは初めて、ただひとりの生ける神と、そのゆるし、その平和へと、導かれます。神は、そのひとり子キリストをとおして、私たちを救いに招いてくださっているのです。

みなさまの上に、神の祝福がありますよう。

川越聖書教会 牧師 岸本 紘

08 アメイジング・グレイス

 みなさま、こんにちは。

 あなたは『アメイジング・グレイス』という歌をご存じですか。

『Amazing grace, how sweet the sound, That saved a wretch like me.
I once was lost, but now am found, Was blind, but now I see.』

 コマーシャルに使われて、毎日のようにテレビから流れているので、知らない人はいないのではないでしょうか。実はこれは『 いつくしみ深き友なるイエスは 』とともに、世界中で最もよく知られ、最も親しまれている『 驚くばかりの恵み 』という賛美歌なのです。

『おどろくばかりの恵み、なんと甘美な調べ。神の恵みはこんなにひどい私をも救った。
かつて失われていた私、今は見いだされ、見えなかった私、今は見える者とされた』

 この詩を書いたのは18世紀のイギリス人、ジョン・ニュートン(1725-1807)でした。
不安な こども時代と、粗暴な青年時代を過ごした後、やがてアフリカとイギリスを行き来する奴隷船の船長になり、無慈悲で荒れすさんだ毎日を生きていました。ときにはそんな自分を悔い、しばしば『聖書』に触れては立ち直ろうとしましたが、どうしてもそれはできずにいました。そんなあるとき北大西洋を航行中に激しい大嵐に遭い、九死に一生を得たのをきっかけに、今までの自分を心底から悔い、キリストを信じたのでした。そしてやがて牧師になり、イギリス全体に大きな影響を与える人となり、多くの賛美歌を書き残しました。その一つが『アメイジング・グレイス』です。彼は、イエス・キリストが盲人の目をいやされた奇蹟と同じことが自分にも起きたのだと歌っているのです。
 ニュートンはまた、キリスト者政治家ウィルバーフォースたちと力を合わせて、晩年の1807年にイギリス国会で奴隷売買禁止法案を通しました。一昨年2007年は、世界中でその禁止法案2百年記念行事が行われ、映画にもなりました。
                                  
 『アメイジング・グレイス』すなわち「おどろくべき恵み」とは、神がキリストの十字架によって私たちをゆるし、新たな人生を歩ませてくださることです。自分さえよければそれでよいと思う自分中心、人を見下げる高慢、いつまでも人をゆるさない敵対心...。こうして「失われ」「見えなく」なっている私たちすべてを、神は、新しく造り変えてくださるのです。

みなさまの上に、驚くべき神の恵みが豊かにありますよう。

川越聖書教会 牧師 岸本 紘

―『アメイジング・グレイス』の原詩や楽譜をご希望でしたら、ご連絡ください―

07 2008年クリスマスに

 みなさま、こんにちは。

 クリスマスの季節がやってきました。
 「クリスマスは 苦手です、牧師さん 言えり、さもあれ 商魂の街」
 これは、私がふと口にした思いを、ある人が短歌に詠まれたものです。わあ、言われてしまったと頭をかきながら、ちょっと嬉しい気もしています。けれども牧師たる者が、イエス・キリストの降誕を祝うクリスマスを苦手だなんて、変だと思われるかもしれません。
 クリスマス、そのキーワードは「喜び」「光」「いのち」「愛」です。それなのに、キリストの降誕と、その静かで変わらない意味はさほどかえりみられず、ただ歳末商戦を活気づけ、歌とイルミネーションで町を盛りたてて、それが「喜び」であり「愛」であるとすれば、クリスマスは骨抜きにされているのだと私は思うのです。
 クリスマスの意味について、聖書にはいくつものことばが記されています。

  「この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」
「あなたがたのために救い主がお生まれになりました。」
(新約聖書『ルカの福音書』2章)

  「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」
 「すべての人を照らす、そのまことの光が世に来ようとしていた。」
「(この方は)人となって、私たちの間に住まわれた。」
(新約聖書『ヨハネの福音書』1章)

  「(まことに彼は)私たちの痛みをになった。」
 「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」
(旧約聖書『イザヤ書』53章)

 
 なんという不思議なことばでしょうか。
 実のところ、私たちだれの心にもほんとうの愛はありません。お互い、見てのとおりです。そしてもちろん喜びや愛をお金で買うことはできません。また、自力で切り開いたと思う人生も、けっこう荒涼たるものです。私たちはみな、悲しみを生きる者たちです。
けれども、この心と人生が、神の赦しと愛にしっかりとつながれるとき、私たちは屈託なく生きる者とされます。この赦しの架け橋となるために、神のひとり子キリストは人として生まれ、十字架の死と復活を遂げてくださいました。キリストは身をもって神と人との深い裂け目の、また、人と人とのきびしい断絶の、ただ一つの真の橋渡しとなられたのです。この十字架において、今までの自分を終わらせるとき、私たちは新しいいのちに生き始めるのです。これがクリスマスのほんとうの意味です。
 今は、経済が停滞するだけではなく、だれもが自分の心のありかを見失って苦闘する時代です。しかし、神が私たち一人一人を知っておられ、愛しておられることを日々の土台とし、神が与えてくださっている赦しを、人との赦しあいの基礎として、困難な時代を生き抜くことができるなら、それはなんと安心でうれしいことでしょうか。キリストの十字架のもとに、私たちのすべての重荷、思い煩いをおろして、新しいスタートを切ることができるのです。
 川越市内のすべてのキリスト教会では、クリスマスの時期にそれぞれの集いが計画されています。ぜひ教会にお出かけください。

みなさまの上に、ご家庭に、神の祝福とクリスマスの平和を祈りつつ。

川越聖書教会 牧師 岸本 紘

06 主を求めよ。お会いできる間に

 みなさま、こんにちは。

 「友あり、遠方より来る。また楽しからずや」
 この夏、全世界を熱狂させた北京オリンピックは、2千5百年前の孔子のことばで幕を明け私たちを驚かせました。学校の漢文の授業を懐かしく思い起こした人々も多いことでしょう。私も改めて『論語』を開いて読んでみました。人生についての深い洞察と知恵が語られていて、これは確かに人類の偉大な遺産の一つだとの感を深くしました。
 「君子危うきに近寄らず」 「小人閑居して不善をなす」 「巧言令色少なし仁」 などなど、これらはみな私たちに、聖人の道、君子の道を示します。また、人としての高い標準を掲げる点で、ほかの多くの先達の教えとともに、世界中で、愛され、敬われ続けるでしょう。
 では、聖書はどうでしょうか。確かに聖書のなかにも「あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります」 「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」など、私たちの心を励ますキリストのことばを、多く見いだすことができます。それゆえに人は、聖書も論語もともに、人生の原理原則、道徳を説くものだと考えるかもしれません。しかしながら、聖書では、それとは全く違った音色が基調になっているのです。そして、それが私たちの心の奥底にまで踏み込んでくると言ってもよいでしょう。

 「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。
  主に帰れ。そうすれば主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」
(旧約聖書『イザヤ書』55章)

 聖書を開くときには、「悪者」とは私のことであり、あなたのことです。そう思って読むことが、聖書を読む場合の大切なルールなのです。そして聖書には歴史、預言、道徳的教え、詩歌、格言など、さまざまな書物が収められていますが、それらは一貫して、どこを開いても、キリストの十字架の「ゆるし」という知らせが編み込まれています。そして、この「ゆるし」の事実にもとづいて、神は、私たちすべてを、ご自分のもとに招こうとなさるのです。
 楽しいときは楽しいなりに、苦しいときも苦しいなりに、ただ気休めや気晴らしで生きているというのではなく、有頂天の日にも、失意のときにも、変わらずに語りかけ、招いておられる方がいる。そうと知るとき、私たちはそこに安心と確信をみいだすことができます。さまよい出た私たちすべての人間に対して、ご自分のもとに帰れと招いている神がおられるのです。

みなさまの上に、神の豊かな祝福がありますよう。

川越聖書教会 牧師 岸本 紘

05 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく

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 みなさま、こんにちは。 

 あなたは「イースター」をご存じですか。全世界のキリスト者はこの日を、クリスマスと同じに、いやそれ以上に、大切に考えてきました。西暦30年春、キリストは弟子たちと「最後の晩餐」をともにした後、深夜に逮捕され、夜通しの裁判を受け、なんの罪も見出されないまま、金曜日の朝9時にはエルサレム城外ゴルゴタの丘で十字架にかけられ、午後3時に息を引き取り、岩穴の墓に葬られました。

 ところが墓に葬られたキリストは、三日目の「週の初めの日」の朝、よみがえりました。罪と死に打ち勝ったのです。そしてこの日こそが「イースター」なのです。当時は太陰暦を使っていたため、こんにちイースターの日付は毎年移動します。今年(2008年)は例年に比べて最も早い3月23日がイースターでした。また全世界で毎週日曜日が休日になっているのも、キリストの復活を記念してのことです。死んだキリストが復活したとは信じにくいことです。けれども、もしもキリストが復活しなかったならば、キリスト教は始まりさえしなかったのです。そして、もしもキリストが復活しなかったならば、最初の三百年間、キリスト者たちはいったい何に支えられて、あの厳しい迫害を生き延びたというのでしょう。また、それ以後もキリストが世界の歴史に与えた測り知れない影響や感化は、いったい何だったといえるでしょうか。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく」
(新約聖書『ヨハネの黙示録』3:20)


 しかし、もしもキリストがほんとうに復活したとすれば、それには次のようないくつかの意味があるのだと分かります。
 第一。キリストはただの人ではなく、「わたしは神だ」と主張した(そして、そのために十字架にかけられた)そのとおりの神であり、今も後も永遠に生きておられること。
 第二。父なる神はその御子キリストの死によって、私たちすべての人の罪を赦し、すべての人を愛しておられること。
 第三。神は、私たちすべての人を死の虚無と悲しみとに勝たせ、私たちの日々に新たな意味を与えてくださること。

 私たちはみな人生に根本的な不安をかかえ、生きる確かな意味を見出せずにいます。しかし、キリストはやさしく道を示し、私たちを恐れなく生きる者にしてくださいます。聖書はこれらの「事実」と「意味」とを伝えているのです。私たちは誰でも、キリストによって、この救いを得ることができます。キリストは今も変わりなく私たちを招かれます。キリストはあなたの心をノックしておられるのです。

みなさまの上に、生ける神の豊かな祝福がありますよう、祈りつつ。

川越聖書教会 牧師 岸本 紘

04 2007年のクリスマスに

bokushi04.jpg みなさま、こんにちは。

 キリストの降誕を祝うクリスマス12月25日が近づいてきました。ユダヤの寒村ベツレヘムの馬小屋にひとりの赤ん坊が生まれたことは、心温まる物語としてこんにちだれもが知っているでしょう。しかしキリストはいったいいつ生まれたのか、そしてそれは事実なのでしょうか。
 12月25日という日付は、実は聖書に書いてあるわけではありません。キリスト教が広まるにつれ、西暦3-4世紀になると、冬至に行われていた異教の祭りをキリストの誕生日として祝うようになっていったのです。ですからこの日が正確な誕生の日付ということではありません。
 聖書には、イエス・キリストが生まれたのは「ユダヤ王ヘロデ」「ローマ皇帝アウグストゥス」の時代であると記されています。さて、それらをもとに中世ヨーロッパのある修道院長が計算をし、「西暦紀元」を定めました。A D すなわち Anno Domini = 主の年です。これに従うと今年はAD 2007年になります。またその後、キリストの誕生以前を「紀元前」と呼ぶようにもなりました。B C すなわち Before Christ = キリスト以前です。しかし残念なことに修道院長は4-6年の計算間違いをしていました。そのために、キリストは正確には6-4BC(キリスト以前6-4年)に生まれたのだという、奇妙なことになってしまったのです。

「神はイエス・キリストによって、平和を宣べ伝え...。
このイエス・キリストはすべての人の主です。」
(新約聖書『使徒の働き』10章36節)

 しかしある人々は、その年代決定さえも内部関係者の書いた聖書によっているので信用できない、いやキリストが実在したかどうかもわからないと考えるかもしれません。けれども聖書のほかにもスエトニウス、タキトゥス、プリニウス、ヨセフスなどなど、キリスト教徒以外の同時代の文献(日本語訳は文庫本で簡単に入手できる)や、碑文などの考古学資料が豊富に残っているので、キリストの実在には余地はないのです。
 キリストがベツレヘムに生まれた時、それを知り、旧約聖書の約束どおりだと理解したのはほんのわずかな人々でしたが、他方、十字架にかかったこと、そして三日目に復活したことは、弟子たちの宣教によって直ちに当時のローマ帝国全域に広まっていきました。人々がキリストを信じた第一は十字架と復活によるのであり、それ抜きにまず降誕を祝うということはなかったのです。ですから今日でも先ずキリストの十字架と復活を理解しないならば、クリスマスは単なるメルヘンにおわってしまうでしょう。
 このようにして誕生、死、復活をとげたイエス・キリストは、人類の歴史上、最大の影響を人々に与え続けることになりました。聖書を読むとき、キリストの人柄はだれにもはっきりと分かり、キリストは生き生きと私たちに迫り、私たちを魅了します。だれひとりキリストをきらう人はなく、みなひとしくこの人にひきつけられるのです。そして世界の最上の音楽、美術、文学、建築はキリストを題材とし、またこのキリストにささげられてきたのでした。このような人物を他に考えることができるでしょうか。文化、教育、福祉、医療、道徳、科学など、ありとあらゆる分野にキリストの愛と赦しのしるしがくっきりと残されているのを、私たちは無視することはできません。そして復活した主キリストは今でも私たちひとりひとりを愛し、その十字架の犠牲に免じて私たちの罪を赦し、その復活を根拠に私たちを真の救いへと導きます。
 ことしのクリスマスが、私たちそれぞれにとって格別に意味深いものとなりますよう。

みなさまの上に神の平和と愛を祈りつつ。

川越聖書教会 牧師 岸本 紘  

03 初めに、神が天と地を創造した

bokushi03.jpg  みなさま、こんにちは、川越聖書教会の岸本です。

 前回は、世界の超ベストセラー、聖書についてお話いたしました。さっそく聖書を読んでくださった方がいらっしゃるでしょうか。けれども人はしばしば、聖書の第一頁で挫折してしまいます。旧約聖書にはいきなり数頁にわたって、おとぎ話のようなことが書いてあり、また新約聖書の最初のところも、カタカナの人名で埋め尽くされているからです。「取り付く島がない」とお感じではないでしょうか。そこで今回は、旧約聖書冒頭の『創世記』1章1節のことば「初めに、神が天と地を創造した」について、少しだけお話いたしましょう。

 「初めに、神が...」 そもそもこの『創世記』を書いたのはいったいだれで、またいつ書いたのでしょうか。伝統的にはモーセ(紀元前15または13世紀)が何らかの意味で深く関わったと言われています。いずれにしてもこれはとても古い書物です。
 しかし地球や宇宙の始まりに関する古い話であれば、他にも世界各地に残っていて、たいして珍しくもないと思われがちです。けれども世界各地の「神話」が必ずといってよいほど、神々の誕生、神々の結婚から説き起こすのに比べると、創世記1章はひときわ異彩を放っていることにお気づきになるでしょう。創世記には神々の誕生の記事がなく、神々の結婚の記事もありません。「神」はただひとりの方、誕生したり、恋をしたり、結婚したり、恋敵と争ったり、殺したりしません。すなわち神は「人間の写し」ではなく「人間の想像の産物」でもなく、「初めに、人間」ではなく、神は私たちを遥かにこえる超越者であると、『創世記』の一行目は知らせようとしているのです。

「初めに、神が天と地を創造した」
(旧約聖書『創世記』1章1節)

 「天と地を...」 人はだれでもおのずから「永遠」や「神」について考え、求めるものです。そして、身の回りの、目に見えるもの見えないものの中で、自分たちの力を超えると思えるものを、神あるいは神々と考えてきました。太陽は「太陽神」とされました。星座の運行が人間の運命を決めると考えて「星占術」が盛んでした。雨や風の神、農業神などがどんどん考え出されました。
 そんな中で聖書は「初めに、神が天地を創造した」と宣言することになったのです。すなわち天地万物は神ではない、太陽も、月も、星も、王さまも、先祖も、それらすべてを含む「天地」は、神ではないというのです。このあとに続く創世記第1章全体は、このことを繰り返し語っています。

 「...創造した」 神が全宇宙を創造した現場に、かりに私たちが居合わせたなら、何が見えたでしょうか。神の手は私たちの目に見えなかったでしょう。そこに出現するすべてのものは、「勝手にできた」としか  ―しかも長い時間をかけてかもしれない― 見えなかったでしょう。神は見えるお方ではないからです。(なお、創世記は宇宙の作り方やそのプロセスを書いたものではなく、また、必ずしも創造か進化かがそのテーマなのではありません。このことは別の機会にお話しなければなりません。)
 では、神が天と地を「創造した」ということはどういうことなのでしょうか。すべての存在、そして私たちひとりひとりは、神の意志によって存在しているということです。私の若いときの牧師であった飯塚俊雄先生は、しばしばこのことをさして「神さまあっての私たち」とおっしゃっていました。今思い起こしても、なんと適切なことばかと驚きます。
 それだけではありません。なにかを作るとき、私たちでさえも、丹精こめて愛情をこめて作るでしょう。神が私たちの「創造者」―私たちの「ものづくり」とは比べ物にならないことですが― であるならばなおのこと、神は私たちひとりひとりを存分に知っておられ、私たちを深くいつくしみ、愛し、私たちを生かし、私たちに語りかけておられるのです。
 私たちは「ほんらい」 ―ということばが重要ですが、今はそれをお話しするスペースがありません― 、無意味な偶然の存在ではないと知れば、私たちの人生はまるで違ったものになるのではないでしょうか。
 創世記第1章はこのような創造主である神を知らせ、たたえる、驚きと喜びの賛歌です。

みなさまの上に神の祝福がありますよう。

川越聖書教会 牧師 岸本 紘

02 あなたは聖書を読んだ事がありますか?

bokushi02.jpg こんにちは、川越聖書教会の岸本です。あなたは聖書を読んだことがおありですか。

 聖書といえば一般に「ためになる本」「良い人になる手引き書」「心を慰める本」と考えられがちです。しかし私たち人間というものは厄介なことに、手引書さえあれば良くなるものでもありません。さらにまたある人は、聖書には、神を信じればいろいろな奇跡が起きると書いてあるのだと考えるでしょう。確かに奇跡も書いてあります。けれども、それらの奇跡は必ずしも私たちの願いや努力や期待に一致するとは限りません。聖書は私たちの都合のよい夢や希望をかなえるわけではありません。また人間をほめてばかりもいません。むしろ人間は「失われたもの」だと指摘し、一度しっかりと自分の真相を見つめるようにと勧めるのです。これが聖書であり、聖書を通して示される神のお考えです。
 人はみな「失われた」存在であり、真の目的を知らず、永続的な平和を持たず、それゆえに私たちの人生は不安定で、根本的に望みのうすいものになっているというのです。ですから、このような自分をしっかりと吟味しなければならず、それができたならば、それこそが奇跡です。

 聖書は人類の最大のベストセラーです。紀元前の千数百年間にわたってヘブル語で書かれた39の書物が旧約聖書です。また西暦一世紀にギリシャ語で書かれた27の書物が新約聖書です。そして今では、世界中の405の言語に翻訳されていて、部分訳もあわせると2,355のことばで読むことができるのです。文字通り他のいかなる本をもはるかにしのぐベストセラーです。また聖書は、首尾一貫した本です。先に述べたように、旧新約聖書の各書物は長い期間にわたって別々の人々によって書かれたのに、中心的な思想や神の姿は一致していて、ブレることがありません。すなわち、神はただひとりの、愛と聖さに満ちた全能のお方であり、「失われた私たち」の回復のために手を差し伸べておられると、聖書のどの部分もが一貫して語るのです。そして私たちが無意識に認めているすべての良いことのもとには、このゆるぎないお方がおられるのだと述べています。

イエスは言われた、「わたしは、失われた人を捜して救うために来たのです」
(新約聖書『ルカの福音書』19章10節)

 このような神がおられて、私たちすべての者を愛し、いつくしみ、救いの手を伸べておられるということは、今では世界中のだれもが、信じる信じないは別にして、知識として知っていることですが、もともとは聖書にしか書いてなかったことです。つまり全人類は聖書によってだけ、このような神と出会うようになったのです。聖書には、人間が思い描く神についての多種多様なイメージが混在することはありません。だから私たちは聖書を軽く見ないで、神とはどういう方なのか、人間はどんなものであるのか、について知ろうと思うときに、聖書を開くのです。

 人はだれでも、聖書に書いてある神やキリストが果たして本当であるかどうか、に関心があります。それは当然のあるべき態度です。もしも聖書の神やキリストが真実であるとすれば、それらは私たち個人や家庭に変革をもたらさずにはいません。しかし、もしもそのような神がおられないとすれば、私たちは人生の確かな土台を、いったいどこに見出すことができるでしょう。ですからこそ、聖書の信頼性について慎重にならざるを得ないし、また慎重に吟味することは大切なことです。聖書の神を知ろうとするとき、私たちが当面のしあわせやご利益を願う以上に、実はその神が私たちに真の愛や聖さや正義を知るよう願っておられるのだ、ということがわかるようになります。こうして聖書の神を知ろうとする私たちの探求は大いに報いられます。聖書の神が、そこに記されたとおりの神として、そのとおり実在されるならば、この神はきょうも、「失われた」私たちを捜し出そうとしておられるのです。

みなさまの上に神の祝福がありますよう。

川越聖書教会 牧師 岸本 紘

01 ヒトは上を見る動物

 こんにちは、川越聖書教会の岸本です。牧師生活36年、そのうち21年を川越で過ごしてきました。この町で多くの友を得、また、すばらしい教会の仲間に恵まれて、幸せな人生を歩んできたと実感しています。

 さてギリシャ人は昔から人間を「アンスローポス」(上を見る者)と呼んできました。なんと素敵な定義でしょうか。ヒトは上を見る動物。
広い空を見上げる―それだって素晴らしいこと―だけではありません。何かをきわめたいと思う向上心、また、より尊い価値を求める衝動が、もともとだれの心にも備わっているようなのです。私たちはこの事実を大切にしたいものです。
聖書もまた、人間は「土くれ」(=物質)にすぎないが、同時に「神はまた、人の心に永遠を与えた」と語っています。
これもまた感銘深いことばです。ヒトはつかの間を生きるに過ぎないのに、永遠を考えずにいられない。歴史上かつてない快適な生活を享受しながら、不安におののき、とげとげしい思いで生きている私たち。

 真の憩いである、永遠の神を見上げ、この方を喜ぶとき、私たちは新しい人生の一頁を開くことができます。

みなさんに神の祝福がありますよう。

川越聖書教会 牧師 岸本 紘

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